アイダホ州を拠点に活躍する感染症の専門家

休眠から覚めたバクテリア

 少なくとも壊死性筋膜炎には、大半の抗生物質が有効だったI診断を受けるのが早ければの話ではあったが。だがなぜ、このヒト食いバクテリアは、数十年もの休眠のあと、一九八九年に突然急増したのだろう? そして北アメリカで年間一五〇〇人以上に感染し、その二割もの人たちの命を奪うようになったのだろう? ほかのグラム陽性菌が、各種抗生物質に急激に耐性を強めているのは、ただの偶然の一致なのだろうか? 細菌と薬がくりひろげる、たえまない闘いによってつくられた生息場所の「すきま」でも発見したのだろうか? そうではないのなら、この突然の浮上をどう説明すればいいのだろう。 それになぜ、たいていの人は大丈夫なのに、不運な人だけがヒト食いバクテリアのえじきとなるのだろう?

 アイダホ州を拠点に活躍する感染症の専門家デュスースティーヴンズ博士は、壊死性筋膜炎の危険性について警鐘を鳴らし、A群レンサ球菌を「旧世界の病原菌」と呼んだ。彼はこう指摘するのを好んだ。ヒポクラテスは紀元前五世紀に、レンサ球菌の感染症のような症状について説明しているし、その後の数世紀、A群レンサ球菌がひき起こした疾患は、猛威をふるっては退却した。それはまるでヒトと微生物が生態学的に優位に立とうと争っているようだった。A群レンサ球菌株が新しい毒性因子を獲得するたびに、ヒトの免疫システムがそれを学び、ついに相手を打ち負かすというくりかえしである。A群レンサ球菌が病原体である猩紅熱は一九三〇年代、恐怖の殺し屋として文明世界を席巻し、抗生物質が出現する前に急激に衰退した。十九世紀にもっともおそれられた感染症は「病院壊疽」であり、これもまたA群レンサ球菌が病原体たった。一八五〇年代初頭のクリミア戦争で、
フランス軍はボスポラス海峡でのロシア軍との戦いで水浸しにされた。そのため、あるフランスの病院船に収容された六〇人の感染患者は、乗組員全員に感染が広がるのを防ぐため三十六時間以内に海上に放り投げられた。その直後、アメリカの南北戦争では、数千人の北軍と南部連合軍の兵士が暴れまわる細菌に手足や命を奪われた。だが猩紅熱と同様に、病院壊疽もまた、だれにもその理由がわからないまま、二十世紀初頭には衰えていったのである。