最後の切り札

 早いうちに、ワクチン接種を受けた幸運な子どもたちにとって、多剤耐性肺炎球菌は、もはや脅威ではなかった。それはちょうど、かつては破壊をもたらしていた感染症にそなえて予防接種を受けた子どもにとっての、はしかやみずぼうそう程度のものだった。だが多くの子どもたちにとって、通常の抗生物質すべてを浸透させない病原体は、キノロン系かバンコマイシンで治療するしか方法がなかった。その費用は、ペニシリンでの治療に比べると、気が遠くなるほど高くつき、そのうえキノロン系は、まだ子どもには危険であると考えられていた。いずれにしろ、こうした最後の切り札の薬の使用量が増えるにつれ、たしかに耐性率は増大した。この急速に進化する菌株は、もうだれの目から見ても、どこから見ても、取るに足らない菌などではなかった。

 二十一世紀の幕開けとともに、肺炎球菌は細菌の世界的な脅威となった。万国にとって脅威だったが、とくに開発途上国では警戒が必要だった。開発途上国では、多剤耐性株に有効な数少ない薬の価格が法外に高かったからだ。WHO(世界保健機関)のロザモンドーウィリアムズは、「二〇〇万ドル未満という微々たる予算で、世界規模の耐性監視ネットワークを築くという、思わずひるむような任務に就き、わたしがなによりおそれているのは、肺炎球菌だ」ときっぱり言い切った。

 少なくとも肺炎球菌の症状は、まだ医師たちにじゅうぶんな警告を与えていたし、まだ大半の症例が無事に治療できていた(必要な薬を入手できればの話だったが)。オンタリオ州のドンーロウのような専門家にとっては、新たな種類のレンサ球菌の感染症が出現した場合、たとえそれが個々の出現であっても、もっと警告が必要なシナリオになる可能性があった。そのシナリオは、症状が目立だないため、ほとんど気づかれないものの、情け容赦なくすばやくとてつもない痛みをもたらし、発症した感染者はたいてい死亡するというものだった。


だがイトグモは、これから展開するドラマの脇役にすぎなかった。そのひと噛みで皮膚に傷口ができたのだが、そこをたまたま危険きわまる病原菌が占拠していたのである。