猩紅熱とリウマチ熱

 公衆衛生の改善にくわえて、抗生物質もA群レンサ球菌の脅威をいっそう弱めるだろうと思われた。一九七〇年代半ばまで、ペニシリンに感受性があった肺炎球菌が「取るに足らない菌」であるなら、A群レンサ球菌は、もっと取るに足らない菌たった。というのは、いまだにペニシリンや大半の抗生物質に感受性があったからだ。猩紅熱とリウマチ熱は両方とも、子どもがかかりやすい軽症の疾患にまで勢いが衰え、壊死性筋膜炎はまったく見られなくなったのである。

 ところが一九八九年、スティーブンズはA群レンサ球菌感染による、それまで治療したことも文献を見たこともなかった感染症を目撃した。それはあっというまに脚に広がる感染症で、知りうるかぎりの抗生物質をスティーブンズが投与したにもかかわらず、それまでは健康そのものだった男性患者は結局、息をひきとっだ。スティーブンズは、この細菌が毒素性ショックを起こす毒素を産出したのだと理解した。ひょっとすると、この件が発端となり、一九八〇年代初頭に発生した黄色ブドウ球菌毒素性ショック症候群に似た集団発生がはじまるのかもしれない、と彼は考えた。この感染症には、ある銘柄のタンポンが関係していた。スティーブンズはパトリックーシュリヴァートに連絡した。シュリヴァートは、ミネアポリスを拠点に活動している研究者で、タンポンによる感染症の謎を解いた人物にもRSAに強い懸念をもっていたシュリヴァートと同一人物―であった。スティーヅンズとシュリヴァートは、壊死性筋膜炎の再出現と思える状況について知恵をだしあった。

 スティーブンズは物腰のやわらかい好人物で、リウマチ熱の合併症でふたりの孫が命を落としたあと、細菌感染症に関心をもつようになっていた。彼は、脚に感染症が広まった彼の患者の症例に似たものを見たことがないかと、同僚に尋ねはじめた、「ああ、それなら見たことがある」と、異口同音の答えがつぎつぎと返ってきた。スティーブンズは、この情報網を「ロッキーマウンテン・クラブ」と呼び、論文を発表しようと詳細な報告書をつのった。その結果、二〇件の情報が寄せられ、すべてが一九 八六年から八八年にかけてのロッキー山脈地帯のものだった。患者の平均年齢は三十六歳。患者はみな、感染症に急襲されるまではごく健康であったようだった。二〇人のうち一九人が毒素性ショックに苦しみ、うち七人が死亡。A群レンサ球菌株は患者によってさまざまだったが、うち八株はきわめてまれな化膿性外毒素、エキソトキシンAを産出していた。これは長年、だれも観察していなかった毒素だった。スティーヴンズとシュリヴァートにせいぜい言えるのは、壊死性筋膜炎を起こすのは、ほかの細菌から借りてきた毒素をもつA群レンサ球菌の新しい菌株であり、非常に毒性の強い猩紅熱を起こす、長く休眠していた株かもしれない、という程度たった。