学術論文は英語で

 

 臨床系の科学論文でもっとも権威のある学術誌はほとんどアメリカとイギリスが出版しています。現在、他の学術領域と同じように、英語こそが国際言語の王様なのです。

 昔はドイツ医学が世界をリードしていましたから、医者はみんなドイツ語を勉強し、ドイツ語の論文を読み、ドイツ語で論文やカルテを書いていたのでした。そもそも診療記録の意味で用いられる「カルテ」という言葉自体がドイツ語で、英語ではチャートと呼びます。

 例えば、内科系の学術誌でもっとも権威が高いのはNew England Journal of Medicineで、ボストンはハーバード大学の中に編集部があるアメリカの学術誌です。

 医学の世界は臨床医学基礎医学に分けることができます。試験管やネズミを相手に実験をするのが基礎医学、患者さんを相手にするのが臨床医学と大ざっぱに捉えていただければよいと思います。学術誌はいずれも臨床系の医学誌です。これが基礎医学になると、NatureやScienceといった学術誌が有名です。これもそれぞれイギリスとアメリカの学術誌です。

 世界の最先端の医学の研究発表はこのような学術誌に発表されます。

 え? ではドイツ医学についてはどうするの? フランスは? イタリアは? カナダ、オーストラリア、ブラジル、ロシア、中国はどうするの? そしてわが日本は?・

 もちろん、それぞれの国でも独自の学術誌を持っています。それらの多くはそれぞれの国の言語で作っています。例えば、日本内科学会の学術誌は「日本内科学会雑誌」と言って、日本語の論文が載せられます。学術誌の中には、抄録と呼ばれるサマリーだけは英語で併記されることもありますが、基本的には日本語がメインの雑誌です。

 けれども、フランス人もドイツ人も、そして日本人も、優れた学術研究を行ったときはそれぞれの言語で論文を書かないのが普通です。通常は英語で書きます。だから、フランスの研究成果もドイツの研究成果も、そして日本の研究成果も主たるものは英語の論文としてアメリカかイギリスの学術誌に投稿されるのです。したがって、これらの英語の学術誌を読んでいれば、世界の医学会の情勢は大体わかります。

 ときどき「英語で学問をやるのは英米思想に屈服している」と反発されることがあります。そういう要素が皆無というわけではないのかもしれませんが、どちらかというと英語は世界中の人が便利だから使っている言葉で、英米云々という閉じた文化の言葉ではなくなってきている傾向にあると思います。カナダやオーストラリアなどの英語圏の国はもちろん、インドやオランダでも科学の世界では英語を使います。

 そういえば10代のとき、初めてフランスに行ったら誰も英語をしゃべってくれなくてとても困りました。知人のイギリス人によると、「あれはしゃべれるけどあえてフランス語しか聞こえないふりをしているんだ」なんて言っていましたが、真偽のほどはわかりません。けれども、数年前にフランスを再訪したときは、多くの人が英語を解してくれましたし、英語でしゃべることに違和感も苦痛もなさそうでした。「フランス人が嫌っていたアメリカやイギリスの言葉」という認識が薄まってきたせいかな、とも思いましたが、考えすぎかもしれません。

 どうして日本人なのに英語で論文を書くかというと、理由は簡単で、たくさんの人に読んでもらいたいからです。外国人で日本語の論文を読むことができる人はごくごく少数です。これでは、自分の貴重な研究成果を読んでもらうことができません。でも、英語で論文を書けば、いまの医学者はほとんど英語の論文を読むことができますから、たくさんの人に読んでもらって評価してもらえるのです。

 日本の医者には「英語が苦手」と言って英語の論文を読むことができない人がときどきいます。しかし、現在主要な論文はほとんど英語で書かれていますから、これではまともに医学の学問はできません。確かに、日本は翻訳文化が進んでいるので、多くの英語の本が日本語に翻訳されていますし、論文も日本語のサマリーを提供するサービスがあります。でも、すべての教科書や論文が日本語に訳されているわけではありませんし、それに論文を検索したいときにはどうしても英語で検索しなければいけません。英語の論文を自由に読みこなす医者と読めない医者とでは、持っている情報量もその質も圧倒的な差が出ます。率直に言って、英語の論文が読めない医者は「医学知識」という観点においては大きなハンディキャップを持っています。

 もちろん、医者の価値は医学知識だけではありませんから、それだけでその人物の総合評価はできません。しかし、医者であれば、英語の論文を自由に読みこなせたほうがずっといいでしょう。手術が下手よりも上手なほうがいい、検査が下手よりも上手なほうがいい、患者さんとのコミュニケーションが下手よりも上手なほうがいいというのと同じような意味で、そうなのです。

感染症は実在しない(構造構成的感染症学)』岩田健太郎著より