債権にがんじがらめになった医学生たち

 

 極端に偏差値の高い学生と莫大な寄付金を積んで入学する学生の二分化が、大学医学部の新入生の構図であった。どちらも一般の庶民には、縁遠い存在である。しかも善悪はどうあれ、彼らは競争社会の勝者の立場にいることはまちがいない。

 この勝者たちが、次代の医師に育っていくわけだが、それは国民(患者)の側から見れば、けっして歓迎すべきことではない。

 当時、大阪大学医学部の中川米造教授(公衆衛生学)が、大阪府の住民三〇〇〇人に、「良い医師とは」「良くない医師とは」のアンケートをし、回答を求めている(『医学教育』第八巻第二号)。ここに患者が求めている医師像が鮮明に浮かびあかっている。「良い医師」とは、「患者の立場」「研究熱心」「いつでも診療」「人間性」「営利的でない」「よく説明する」医師をさしている。逆に「悪い医師」とは、「営利主義的」「技術拙劣」「薬・注射乱用」「患者差別」を行う医師をいう。

 患者の側には、患者の立場に立って診療にあたってくれることを願う気持ちがあり、それを感じたときに、医師を尊敬する。ひたすら営利に走り、患者を差別する医師はもっとも敬遠されているといえるだろう。

 当時の八〇〇〇人余の医学部入学者たちは、患者のこういう期待に応えてくれるように育ってくれたのであろうか。

 これまで見てきたように、常識を疑う多額の寄付金を払って入学した学生が、医師として育ったならば、その結果は歴然としている。つまり総額(六年間の納入金)で一億円から一億五〇〇〇万円もの投資をしているのだから、その回収に躍起となるのも当然である。

 たとえ彼らが善意にあふれた医師になろうとしても、それが許されない状況になっているのだ。

 彼らに投資する親(だいたいが開業医)は、病院を建築する際、電子医療機器の導入などの設備投資のため、金融資本にがんじからめになっている。設備投資は、医者を銀行の下僕と化すようなものだ。そういった親にとって、子どもは単なる権益の継承者という以外に、借入金の返済を託すという事情もある。そういう事情を知ったうえで、金融資本は私立医科大学の入学金も容易に貸している。金権入試は、債権にがんじからめになった医学生を作りだすことでもあったのだ。

 こういう情況にある彼らが、どうして「営利主義」を放棄できるだろうか。

『物語 大学医学部』保阪正康著より