2014-06-10から1日間の記事一覧

患者の痛みを理解しない者ばかりに

偏差値の高い集団によって乗っとられた感のある大学医学部は、こういう事態とは異なった現象を生みだしている。徹底したエリート意識を己のものとする彼らは、競争社会の勝者としての視点しか持っていないので、弱者としての患者の心理構造などとても理解で…

債権にがんじがらめになった医学生たち

極端に偏差値の高い学生と莫大な寄付金を積んで入学する学生の二分化が、大学医学部の新入生の構図であった。どちらも一般の庶民には、縁遠い存在である。しかも善悪はどうあれ、彼らは競争社会の勝者の立場にいることはまちがいない。 この勝者たちが、次代…

東京ゼミナール事件

新設私立医科大学の不明朗な入試は、受験ブローカーの格好の餌食ともなってきた。「とにもかくにも医学部に子弟を送りこみたい」と考えている父母は、これらのブローカーによって赤子のように手玉にとられていたという。 この時期の受験ブローカーの跳梁跋扈…

偏差値の高い生徒を医学部に回す理由

医学部受験生、つまりエリー卜予備軍の戦士は、彼を取りまく周囲の環境によって作りだされている。この戦士たちに共通しているのは、いわゆる「偏差値」が並外れて高いという点である。偏差値が高いゆえに、本人よりも周囲が医学部に押しこもうと躍起になる…

開業医のこだわりと裏金

このことを裏付けるべく、新設私立医科大学の設立ラッシュ直前の開業医の助きを訓べてみたところ、きわめて興味深い事実が判明した。昭和四三二九六八)年ごろから、全国の開業医たちのあいだでは、「新設私立医科大学を医師白身の手で作ろう」という呼びか…

なぜ、医師は自分の子どもも医者にしたがるのか

戦後、医科大学の新設は一校もなく、むしろ医学専門学校の吸収・統廃合などにより、総数としては減少の傾向にあった。ところが、昭和四五(一九七〇)年から急激に建設ラッシュに入った。それというのも、この答申の持つ建前がそのまま受け入れられたからで…

医学部学生の志望理由:「金をもうけたい」「人に尊敬されたい」

1980年ごろの大学医学部への進学者、つまり医師を目ざす者には、それまでとは異なる特徴があった。まず医学部の定員が2倍にふえたわけだから、その門戸は広まったことになる。しかし、新設の30大学のうちその半数近くは俗に「新設私立医科大」と称されたよ…

スペイン菌株

デーレンカストレは、保育施設の子どもたちがとくに多剤耐性肺炎球菌に攻撃されやすいことを観察した最初の研究者だった。保育施設に入園する前、幼児は家ですごしており、一度にひとりかふたりの子どもに会う程度だった。ところが突然、狭い空間に二〇人以…

ヨーロッパ

送った分離株についてクーンホフが説明すると、「少なくとも数十年前に、黄色ブドウ球菌がペニシリンに対してしたことを、肺炎球菌がおこなう様子を見ることができるだろう」とトマツは請けあった。つまり、ペニシリンの化学的な環を切り離すことのできる酵…

ハンガリーのアクセント

トマツは、まだニューヨーク市のロックフェラー大学の教授になったばかりで、オズワルド・T・アヴェリー、コリン・M・マクラウド、マクリン・N・マカーテイらの研究室の聡明な若き後継者たった。トマツはキャンパスの北端にある蔦のからまる建物におり、…

南アフリカ、そしてニューギニアの菌株

集団発生が広がるにつれ、研究者たちはオーストラリアのデイヴィッドに連絡をいれ、彼の十年物のペニシリン耐性肺炎球菌の株をわけてくれ、と頼んだ。その菌株は、アフリカのものとは異なった株はペニシリンだけに耐性があったのだ1が、ニューギニアの菌株…

マクロライド、テトラサイクリン、そしてトリメトプリムースルフア 246メトキサソール耐

クーンホフは、ペニシリン耐性肺炎球菌を確認し、その驚くべき発見を青年医師マイケルージェイコブズとわがちあった。ジェイコブズは、クーンホフに師事するためバラグワナス病院にやってきたばかりで、病院の微生物学検査室を引き継ぐことになっていた。ジ…

医学文献

レジデントが驚いたことに、そしてアップルホームも驚いたことに、その菌株はペニシリンに阻止されることなく成長をつづけた。 アップルホームは医学文献をさがし、それ以前の十年のあいたに、ペニシリン耐性肺炎球菌の報告が、わずかに存在したことを知った…

トペニシリン、カナマイシン、クロラムフェニコール

二十世紀後半のほとんどを、薬剤で退治できる、取るに足らない菌と見なされてきた肺炎球菌は、微生物という敵のなかでも良性のものだった。ほかの細菌とは異なり、肺炎球菌の細胞は、多糖類という糖の複合体でできた、やっかいな莢膜のなかに閉じ込められて…

保育園でずっとほかの子どもだちと一緒だったうえ、大半の時間をあおむけに寝て過ごしていたため、細菌はJ.P.ののどから簡単に広がり、耳の痛みが再発した。とうとう、両親は朧をたすための小さなチューブを、手術で息子の耳に挿入することに同意した。…

ブルック病院の心臓病専門医

だが、いくら警戒したところで、子どもどうしが接触するのを禁止できるわけもなく、幼児には攻撃を受けやすい免疫力しかないうえ、非常に狭い空間で毎日いっしょに過ごしており、感染は防ぎようがなかった。感染症を専門とする大学病院の内科医スーザンード…

肺炎球菌は気道感染ではなく、ひどい中耳炎を起こす

大学病院に動務する医師は、抗生物質が、ウイルス性ではない気道感染、つまり気道感染の三割にしか効果がないことを知っていた。だが医師には、それがウイルス性であるか否かを即座に見分けることができず、その状況下で唯一分別のある行動をとった。気道感…

DNAの断片がコンピュータのスクリーンに帯状に並ぶ

だがティムーナイミにしてみれば、シュリツァートの仮説は、どう見ても立証するのが困難だった。もちろん、こうした症例では黄色ブドウ球菌が引き金となり、患者に免疫システムの一連の反応が起こり、それが毒素性ショックへとつながったのだろう。だが、そ…

免疫グロブリンG

シュリヴァートは、市中MRSAに感染した三九人の患者から血液を採取し、検査をおこなった。この患者のうち四人はすでに死亡していた。三三人から、彼の旧友、黄色ブドウ球菌の毒素が発見された。たまたま、この菌株はTSST-1ではなかったが、三九人…

エンテロトキシン(腸管毒素)B型とC型

おなじ日、シュリツァートは、ニューヨーク市のゲーリー・ノエルという内科医から電話をもらった。驚いたことに「市中MRSAが新たに発生し、こんどはひとりの少年が感染した」という。シュリヴァートは、おなじ助言を与えた。少年は免疫グロブリンGを投…

黄色ブドウ球菌の専門家

一九九九年二月、マンディの死後一ヵ月もたたないころ、市中MRSAの感染で四人めの子どもの犠牲者がでた。命を落としたのは、こんどは、ノースダコタ州の辺地に暮らす生後十二ヵ月の白人の男児たった。マンディと同様に、男児は重い肺炎にかかっており、…

市中MRSA株の存在

標準的な作戦として、ナイミは対照調査をおこなった。おなじ地域で、MRSAの新しい菌株に市中で感染した患者と、来院したときには、すでにありふれた種類の黄色ブドウ球菌、つまりメチシリンなどの抗生物質に感受性かおる黄色ブドウ球菌に感染していた患…

医学探偵

医学探偵としてナイミは、ミネソタ州北部のとある小さな村落を訪ねた。そこに患者が集中しており、その大半がオジブワ族たった。ナイミは、医師、看護師、患者の家族、そしてじゅうぶんな年齢に達していれば、患者自身に質問をしてまわり、なんとか謎を解く…

メイヨー・クリニック

ナイミはまた、感染者の血液の分離株を覬察して、驚いた。光学顕微鏡で見ると、MRSAの菌株はまるで金色のぶどうの房のようで、どれもまったくおなじに見えたのである。だが、パルスフィールドゲル電気泳動法という試験により、ナイミはそれぞれの分離株…

セフアロスポリンやメチシリンの新しい型であるオキサシリン

「市中MRSAが発生した」という話を、ミネソタ州公衆衛生局のティムーナイミ医師が耳にしたのは、マンディータイスが入院を認められた日の翌日だった。疫学調査官として、ナイミにはもう、マンディの担当医師たちの治療以上のことはなにもできなかった。…

生命維持装置の電源

まだ検査結果でマンディがMRSAに感染していることを確認してはいなかったものの、ペラーニは悲観していた。マンディの肺は弱っており、膜型人工肺という最新式の装置につなげなければならなかった。人工呼吸装置がマンディのかわりに呼吸をし、膜型人工…

ネイティブ-アメリカン

「マンディの命を救ってくださった先生なの」モナは恋人にベラーニ医師を紹介した。「事態を把握できる人がいるとすれば、この先生よ」 「ベストを尽くします」と、ベラーニはもごもごと言った。本当のところは、あまり希望をもっていなかった。検査結果はま…

小児病棟の待合室

娘を病院に連れていくと、通常の検査とレントゲン撮影のあと、肺炎という診断がくだされた。白血球値が高く、マンディは、なんらかの感染と闘っているものと思われたため、もっと詳細な分析が必要となり、ふたたび血液が採取された。だが容態が急変するおそ…

インフルエンザの薬

マンディは、体格のよい、元気と自信にあふれた少女で、はちみつ色の髪、率直で温和な顔、広い肩をもち、男の子のようにふるまう少女だった。男の子にまじってフットボールをするのが大好きで、パント、パス、キックを争うコンテストでは男子を負かし、トロ…

ミネソタ州農務省の検査官

そこでスミスは、そろそろ等式の反対側-つまり家畜-を検査するころあいだ、と判断した。一九九七年秋、彼はミネソタ州農務省の検査官に命じ、ミネアポリスからセントポールにかけての広い地域で鶏肉を購入させた。検査官は、小売店店舗で、九一種類の鶏肉…