トペニシリン、カナマイシン、クロラムフェニコール

 二十世紀後半のほとんどを、薬剤で退治できる、取るに足らない菌と見なされてきた肺炎球菌は、微生物という敵のなかでも良性のものだった。ほかの細菌とは異なり、肺炎球菌の細胞は、多糖類という糖の複合体でできた、やっかいな莢膜のなかに閉じ込められている。この糖類の微妙なちがいが、肺炎球菌に九〇種類もの血清型をつくる。この血清型が少しずつ異なるため、免疫システムがそれを標的にするには、いちいち見分けなければならない。この莢膜があるからこそ肺炎球菌の毒性が保たれ、菌が肺の粘膜に付着し、肺の機能をさまたげる粘液を産出し、肺炎を起こすのである。

 抗生物質の時代がはじまるまで、肺炎球菌は「ご隠居の友」だった。肺炎球菌などの肺炎の要因となるものが、衰弱した高齢患者にこっそりとしのびこんでいたが、これにともなう痛みや苦痛は最小限だった。いわば自然なかたちの安楽死であったのだ。戦時中の兵士たちは、戦場で傷の合併症や、悪天候に長いあいださらされた結果、肺炎球菌が原因で命を落とした。高齢者と同様に免疫力の弱い幼児もまた、やはりぞろぞろと肺炎で命を落としていった。二十世紀になったころ、結核をのぞけば、肺炎球菌とその仲間が原因で起こった肺炎は、どんな疾病より致死性が高かった。そして第二次世界大戦のさなか、ついにペニシリンが登場した。一夜にして、肺炎球菌による死亡率は、三〇%から五%に下落し、そのままずっと低かったため、医師と製薬会社はすっかり丸めこまれた。もう肺炎球菌はこわくない、と安心したのである。この状態は、南アフリカ共和国でおそろしい集団発生が起こるまでつづいた。

 一九七七年春、南アフリカ生まれの医師で、当時ダーバンのエドワードハ世病院の微生物検査室長を務めていたピーター・アップルホームは、いつもの手順で生後四ヵ月の黒人の乳児の血液培養を分析していた。その乳児は髄膜炎を起こし、白血球数が危険なレベルまで低下していた。主治医たちは手元にある薬トペニシリン、カナマイシン、クロラムフェニコールなどをすべて使って治療にあたった。だが六日後、その女の子は死亡した。ひどい栄養失調の乳児が感染症にかかった場合の典型的な結果だった。だがアップルホームの検査室で、彼女の肺炎球菌は、まだ寒天培地の上で培養されていた。アップルホームが、「その培養のペニシリン反応を調べてくれ」と、レジデントに気まぐれで命じたのである。「なぜです?」レジデントは尋ねた。「肺炎球菌がペニシリンに感受性があるのは、わかりきっだことなのに?」「とにかく検査しろ」と、アップルホームは命じた。