スペイン菌株

 デーレンカストレは、保育施設の子どもたちがとくに多剤耐性肺炎球菌に攻撃されやすいことを観察した最初の研究者だった。保育施設に入園する前、幼児は家ですごしており、一度にひとりかふたりの子どもに会う程度だった。ところが突然、狭い空間に二〇人以上がひしめく場所に、くる日もくる日も投げこまれる。たがいに触れあい、取っ組みあい、唾や粘液を飛ばしあい、咳やくしゃみをかけあう。デーレンカストレは、調査対象の子どもたちの五割から六割が肺炎球菌を保菌し、その子どもが風邪をひき免疫力が低下すると、肺炎球菌感染症を発症するという流れに気づいた。感染した子どもは抗生物質の連続攻撃を受け、肺炎球菌が多剤耐性になる確率が急増する。公衆衛生の観点から見れば、これはまぎれもない惨事であると、デーレンカストレは記した。

 この新しい菌には、聖域がないようだった。アイスランドでは、政府の厳しい衛生計画が施行されており、また他国から地理的に遠い島であるため、島の肺炎球菌の集団は、ほかの集団と遺伝的な交流がなく、肺炎球菌の出現は最小限におさえられ、耐性率は○%だった。ところが一九八八年、政府の警戒にもかかわらず、ペニシリン耐性肺炎球菌の最初の例が突如として出現した。アイスランド島内の肺炎球菌のうち一七%が、一九九二年末にはペニシリン耐性になっていた。これは、じつに驚くべき飛躍だった。レイキャビーク国立大学病院微生物学者カール・G・クリスチャンソンは、この分離株をニューヨークのトマツに送り、そしてもうひとりの肺炎球菌の研究の第一人者、ペンシルヅエニア大学の口バートーオーストリアン博士に送った。三人の専門家によって検査された結果、この分離株の大半が多剤耐性のおなじパターンをもっていることが確認された。ペニシリンだけでなく、テトラサイクリン、クロラムフェニコール、エリスロマイシン、トリメトプリムースルファメトキサソール薬に耐性があったのだ。医学探偵として捜査をこつこつとつづけた結果、クリスチャンソンは次のような結論をたした。「アイスランドの旅行業者がスペインで休暇を過ごし、スペインの菌株を保菌するスペインの子どもだちと接触した。この業者は子どもたちの飛沫にさらされ、知らないうちに保菌者になっていた。帰国すると、自分の子どもたちの前で咳やくしゃみをするようになった。子どもたちもまた保菌者となり、耐性菌を保育施設でまき散らした」と。

 すでに、アイスランドの衛生局は、抗生物質に慎重な規制をもうけていたが、その規制はより厳重になった。スペイン菌株が耐性をもっていたすべての抗生物質の使用が削減された。ペニシリンなどの抗生物質から淘汰圧を受けなければ、多剤耐性のためにDNAに余分な固まりがあるスペイン菌株菌は動きがにぶくなり、感受性のある鋭敏な仲間に比べて、生き延びるうえで不利な立場に追い込まれた。そして、肺炎球菌の世界では統計学に急激な動きが生じた。感受性のある菌が優勢になったのである。四年後、アイスランドの厳しく管理された環境で、多剤耐性肺炎球菌の発生率はほぼゼロにもどったのだった。