医学文献

 レジデントが驚いたことに、そしてアップルホームも驚いたことに、その菌株はペニシリンに阻止されることなく成長をつづけた。

 アップルホームは医学文献をさがし、それ以前の十年のあいたに、ペニシリン耐性肺炎球菌の報告が、わずかに存在したことを知った。最初の報告は、一九六九年のニューギニアからのもので、デイヴィッドー(ンスマン博士という名前で引用されていた。だが、引きあいにだされる人間は耐性菌を保菌しているだけで、発症はしていなかった。つまり、菌を保有してはいるものの、完全には感染していない、という意味である。実際に発病し、抗生物質の投与を必要とした患者はいなかった。アメリカとイギリスから、そしてルーマニア南部の小さな町からも症例の報告がわずかにあったが、すべて一九七〇年代初頭のものだった。とはいえ、どれも独立した事例たった。気まぐれな出来事なのだろうかと、アップルホームは考えた。一方、検査室では、すべての新しい肺炎球菌の分離株のペニシリン反応が調べられるようになった。二件めが発見され、すぐに三件めも発見された。

 アップルホームが目にしていたのは、ペニシリン耐性肺炎球菌の臨床における初めての集団発生だった。「取るに足らない菌」から「危険な殺し屋」へと、肺炎球菌がふたたび目覚めたのである。そのうえ、この菌はペニシリンだけでなく、クロラムフェニコールにも、アフリカで細菌性髄膜炎の治療に使われた二種類の抗生物質にも耐性があることが判明した。 アップルホームは、その分離株をヨ(ネスバーグに送り、ソウェトのバラグワナス病院の微生物検査室長に検査を依頼した。バラグワナス病院は二〇〇〇床を有する、おそらくアフリカ最大の病院であり、国内最大の研究所、南アフリカ医学研究所の付属病院である。そこに分離株の検査を依頼するのは、医療計画としても最適だった。そうすれば、病院への警告の役割も果たすだろう。研究所のヘンリクークーンホフ博士は、ペニシリン耐性肺炎球菌をきっと発見するだろう。そうすれば、患者の命を救うことができるだろうし、われわれの目前で危険な集団発生がはじまっている、というアップルホームの疑惑の証拠にもなるだろう。