ハンガリーのアクセント

 トマツは、まだニューヨーク市ロックフェラー大学の教授になったばかりで、オズワルド・T・アヴェリー、コリン・M・マクラウド、マクリン・N・マカーテイらの研究室の聡明な若き後継者たった。トマツはキャンパスの北端にある蔦のからまる建物におり、その三人の学者が肺炎球菌を使い、「DNAこそ遺伝子の本体である」と立証した部屋と、天井の高さがおなじ日当たりのいい部屋で研究をつづけていた。トマツは、そのアングロサクソンの三人組とは対照的だった。一九五六年、青年トマツは、農家のトラックの後部座席に乗り、ソ連軍から逃れ、着の身着のまま(ンガリーから脱出した。どうしても微生物学者になりたかったトマツは、オーストリアの難民として、ロックフェラー大学のジョシュアーレーダーバーグに手紙を書いた。レーダーバーグは、トマツにスローンーケタリング病院の技師の仕事を世話してくれた。ここを足がかりに、トマツはコロンビア大学で博士号を取得し、アヴェリーの共同研究者のひとりである口上フンドーホチキスの下ではたらくために、ロックフェラー大学にやってきた。ホチキスとともに、トマツは肺炎球菌の遺伝子と多糖類の莢膜の研究に没頭した。肺炎球菌が、どのようにして抗生物質耐性を獲得するのかを理解するには、いい方法だった。

 一九七九年、クーンホフとジェイコブズは、南アフリカの肺炎球菌から分離した最初の菌株をトマツに送った。トマツは、抗生物質耐性の細菌、とくに耐性肺炎球菌が急増し、脅威となるだろうと千言し、よく名を知られていた。トマツは威勢がよく、芝居がかったふるまいをし、せっかちな気分屋で、どちらかといえば無口な人間が多い微生物学者のなかでは型やぶりの性格の持ち主だった。そして強いハンガリーのアクセントをまじえ、「抗生物質の時代の終焉はすぐそこに迫っている」と同僚に警告した。アップルホーム個人としては、トマツは自分だけ目立とうとしているように見えた。南アフリカの発見を横取りし、自分だけの手柄にしているように感じられたのである。一方、同僚のなかには、アップルホームについて、こう言う者もいたはずだ。「あいつは気むずかしい男だからね」