ブルック病院の心臓病専門医

 だが、いくら警戒したところで、子どもどうしが接触するのを禁止できるわけもなく、幼児には攻撃を受けやすい免疫力しかないうえ、非常に狭い空間で毎日いっしょに過ごしており、感染は防ぎようがなかった。感染症を専門とする大学病院の内科医スーザンードネランは、ニューヨーク州ロングアイランドの中心部にあるストーニー・ブルック病院の感染対策部長をつとめていた。}九九八年春、ドネランは自分の専門分野の基準から見て、はたして地元の保育園に十ヵ月の息子J.P.を預けても大丈夫だろうかと、あれこれ考えていた。トイレは清潔だろうか? どの程度、清潔だろうか? 冷凍食品のランチやおやつは新しいだろうか? 冷蔵庫の前面においてある牛乳は、奥にしまってある牛乳より賞味期限が迫っているだろうか? 食事のしたくをする人間と、配膳する人間はちがうだろうか? そして食事のしたくをする人間は、使い捨ての合成樹脂製手袋をはめているだろうか? その保育園はドネランの試験にみごとに合格し、五月十八日、彼女は息子のJ.P.を初めて保育園に連れていった。二週間後、J.P.は耳痛を訴え、高熱をだした。ドネランは、小児科医に処方された十日分の抗生物質にくわえ、小児用の〈モトリン〉と〈タイノール〉を飲ませた。症状はおさまってはまたぶり返した。七月一日の夜、J.P.は四〇度五分の高熱をだし、目を覚ました。耳も腫れあがり、翌朝には見るからにひどい状態になっていた。

 ドネランとストーニー・ブルック病院の心臓病専門医である夫のジョンーダーヴァンは、ある意味で幸運だった。J.P.は永遠に聴覚をうしなわずにすんだのだから。だが、両親は勤務先の病院で、息子の耳の腫れは、乳様突起炎―耳のうしろの側頭骨の炎症1で、重症だという診断を受けた。J.P.は、翌日の手術で、半月のかたちに切開された耳のうしろから、乳様突起の一部分が切除され、膿が排出された。四日後、多剤耐性肺炎球菌のその菌株にもっとも効果かおる、と証明済みの抗生物質セフトリアソンを処方され、彼は自宅にもどった。この薬は筋肉注射の必要があった。ドネランは、自分で注射することもできたが、看護師がするべきだと言い張った。「ママというものは、子どもを痛がらせることはしないものよ」とは、ドネランの弁である。