黄色ブドウ球菌の専門家

 一九九九年二月、マンディの死後一ヵ月もたたないころ、市中MRSAの感染で四人めの子どもの犠牲者がでた。命を落としたのは、こんどは、ノースダコタ州の辺地に暮らす生後十二ヵ月の白人の男児たった。マンディと同様に、男児は重い肺炎にかかっており、呼吸困難におちいったため、胸腔チューブをいれられた。マンディと同様に、男児ははじめお決まりの抗生物質を与えられた。医師は、抗生物質で治療できるだろうと思い込んでいた。入院して二日め、こうした抗生物質が効果をあげないことがわかり、医師は薬をバンコマイシンに切り替えた。だがマンディの例と同様に、男児にとってはバンコマイシンが投与されるのが遅すぎた。三日め、男児は呼吸困難がひどくなり、血圧がますます高くなり、苦しみぬいて息をひきとった。ナイミがこの男児の症例を調べたところ、男児の二歳の姉がその三週間前にMRSA感染の治療を受けていたことがわかった。姉から採取した分離株を調べたところ、男児の株とまったくおなじであることがわかった。これは興味深い情報だったが、どのように姉がMRSAに感染し、なぜ生き残り、なぜ弟が命を落としたのか、ナイミには皆目わからなかった。耐性菌の恐怖は日常にひそむ

 デラウェア・ストリートに面したナイミのオフィスから少し歩いたところに、ミネソタ大学医学部の建物かおり、その九階の研究室に勤務する科学者パトリックーシュリヴァートは、とりつかれたように研究に没頭していた。シュリヴァートは、ミネソタ州ノースダコタ州の四人の子どもがどうやってこの新しいMRSA株に感染し、なぜ命を落としたのか、自分には正確なところがわかると感じていた。それに、どうすれば命を救うことができたかも。

 シュリヴァートは、黄色ブドウ球菌の専門家であり、マンディークイスが小児病院に到着した日の翌日、担当医師のひとりから連絡をもらっていたほど、医学界ではよく知られた存在だった。症状の説明を聞くやいなや、シュリヴァートには、なにをすべきかがわかった。だが医師は「マンディの症状はあまりにも悪化しており、あなたが推薦する免疫グロブリンGという感染撃退薬には反応しないだろう」と答えた。この薬は、投与一回につき二〇〇〇ドルもの費用がかかった(ベラーニ医師は、免疫グロブリンGをマンディに投与したが、投薬に反応するには症状が悪化しすぎていたと報告した)。