生命維持装置の電源

 まだ検査結果でマンディがMRSAに感染していることを確認してはいなかったものの、ペラーニは悲観していた。マンディの肺は弱っており、膜型人工肺という最新式の装置につなげなければならなかった。人工呼吸装置がマンディのかわりに呼吸をし、膜型人工肺が身体から血液を排出し、そこに人工的に酸素をくわえ、それをふたたび血流にもどしていた。腎臓も弱っていたため、透析器につながれたが、それでも腎臓から排出されるべき毒素が、体の残りの部分にしみだしていた。多臓器不全を起こしており、それが黄色ブドウ球菌の暴力的な攻撃のなによりの徴候であることが、ベラーニにはわかっていた。投与された抗生物質の数々にマンディが反応しなかったことからも、それは明白だった。

 金曜の朝、マンディがMRSAに感染しているという検査結果を受け取るころには、小児病棟の待合室にいるのはもうモナとマークのふたりだけではなかった。モナのほかの子どもたち、そしてマンディの父親も姿を見せた。モナの三人の姉妹、そして父方母方双方の親戚が集まった。その日のうちに、同級生やワコニアの先生、コロンの新しい友人にも、「マンディが危篤だ」という話が伝わった。ふたり、三人と連れ立って待合室にやってきたかれらは、そのまま家に帰ろうとしなかった。その晩は三〇人ほどが待合室で眠り、二晩めには親族の待合室で眠った。病院は、薬に誘導され昏睡状態にあるうえ、管だらけの状態のマンディの部屋に、家族以外の見舞い客が入室することを禁じた。それでも、かれらは待ちつづけたため、病院側は一団に分散するよう命じた。そこで友人たちは交替でやってくるようになり、病院側に抵抗した。ひとりが言った。「ここで寝ちゃいけないなら、車で寝るから」折れた病院側はグループに分けることを提案し、交替制がはしまった、昼は数時間おきに、友人、先生、養護教師、校長が待合室で控えるようになったのである。

 月曜になると、マンディの生命維持に欠かせない、ほぼすべての臓器が、部分的に、あるいは全体的に機能しなくなった。ただ機械によってのみ、彼女は生かされていた。その日、病院側は、友人たち数人ずつに、マンディの枕元で順番にお別れのことばを言うのを認めた。

 娘の生命維持装置の電源を切ることを医師から告げられたら、いったいどんな気持ちがするのか、モナには想像もつかなかった。だが実際に告げられてみると、モナはほっとした。マンディの病状には希望がもてないことを、医師だちから耐えがたいほどくわしく聞かされていたのである。モナには、そうすることが正しいと思えた。それが母親として娘にできる唯一のことだと。 装置の電源が切られ、その八分後に、マンディは息をひきとっだ。一九九九年一月二十七日のことだった。