医科大学の乱立

 

 単純な数値主義による医科大学の乱立は、医学教育にどのような変化を与えていくのであろうか。医学部入学試験がさまざまな矛盾を抱えながら、実際には具体的な改良がなされないまま毎年行われていたように、医学教育もまた、そのように進んできたのだろうか。むしろ医学教育の退嬰的な側面には、かなりの問題があるといってよいぐらいだ。当時の様子を以下にレポートしていきたい。

 医学生の学生生活六年のあいだの医学教育は、ほぼ三つの段階を経て進められている。一般教養・基礎医学臨床医学といった順序で、それぞれ二年間ずつ費やされるのが、当時の一般的な教育体系であった。この体系は、戦後の医学教育改革期にアメリカの大学教育の体系を踏襲したものであり、文部省(当時)が大学医学部を指導・監督するときの核になってきていた。

 当初、文部省・厚生省ともに体系的な医学教育観は持っていなかったために、そういう作業は、大学医学部の教官に任されていた。岐阜大学医学部の尾島教授、帝京大学医学部の鈴木淳一教授ら日本医学部教育学会の中枢メンバーが、昭和四九(一九七四)年にシドニーで行われたWHO(世界保健機構)のワークショップで協同立案した、「卒前医学教育」の骨格がある。

 これが、当時、医学教育の中核を占めるといわれていた。

 以下の五項目から成っている。

昭和の大学医学部とは、いかなる組織だったか

一 健康に関する諸問題を認識し、規定し、分析する。それに対処し、また解決するための知識を習得する

二 卒業後の将来のために、医学関係の職業人としての資質や態度を養う

三 患者および地域の健康問題を確認し、それに対処するための臨床的技術や社会医学的能力を養う

四 将来、各種の臨床医学・研究施設、教育施設における有能な創造的一員となる素地を養う

五 医学・医療の分野において継続的教育と必要性を認識し、生涯を通じて自己教育の習慣を作る

 この目的に合致するために、各課目・各単位のカリキュラムが作られるべきであり、そのための学習方法が検討されなければならない、とも述べられていた。「現在の大学医学部教育は、アメリカ型のカリキュラムの不備な点、ゆき届かぬ点は是正されるべきだ」と説いていたのである。