研究至上主義の奴隷

 


 東京帝国大学医学部が設立されて以来、大学医学教育はドイツの医学教育をそのまま踏襲したもので、基礎医学に重点を置いたカリキュラムが組まれていた。大正末期から昭和初期の東京帝国大学医学部のカリキュラムにおいては、臨床医学にはそれほど配慮がされていない。臨床医になるのは、医学専門学校(医専)や慶應義塾大学東京慈恵会医科大学のような私学の医学部が行うべきこととされ、「帝国大学は医学の理論・研究水準を昂揚せしめるために存在している」という意図が示されていた。

 こういうカリキュラムでは、医学生たちが研究至上主義の奴隷と化すのは当然なことである。実際に、患者を「マテリアル(素材)」と呼ぶ習慣がっづいてきたのも、充分納得できるであろう。

 つづいて昭和五〇(一九七五)年に改訂となった新基準と旧基準を比較してみると、いくつかの相違点があった。たとえば新基準には医学概論、医学史、公衆衛生学など医学、医療周辺の学問がかなりの比重をとって持ちこまれていた。これまで、医学を研究至上主義の枠に閉じこめていたのを反省し、患者との接点を模索しようとの意気ごみが窺える時間配分となっている。旧基準には、GHQが「日本の民主化」を旗印に持ちこんだ教育体系の一部が、そのまま影を落としていたと考えてもいいであろう。それを時代に合わせて変えていこうとしていたわけだ。

 ところが、大正末期から昭和初期、戦後の旧基準と変遷してきたカリキュラムと、昭和五〇(一九七五)年改訂の新基準でのカリキュラムの時間配分の差には、軍国主義下の医学教育と端緒が開き始めた民主主義下の医学教育および、それを手直しした教育との相違が認められるにもかかわらず、そうした思惑とは裏腹に、医学教育の内容にはさしたる変化は起きていなかった。つまり、医学教育の根底には、「研究至上主義」が依然として幅をきかせ、臨床を軽侮する体質が抱えこまれていた。なぜこのような矛盾がまだあったのだろうか。

『物語 大学医学部』保阪正康