東大医学部

 

 東大医学部は、昭和三三年に一〇〇年祭を行っている。このときに『東京大学医学部百年史』を刊行しているのだが、この一〇〇年史は、単にきれいごとのみを羅列しているだけではない。開校前後は詳述してあるのに、年を追っていくほどに記述量は少なくなる。大正末期から昭和に入ると記述はもはやかけ足になり、なにをいいたいのかが不明瞭になっていくのである。東大医学部の自省は一片もない。

 それだけ大日本帝国そのものの崩壊と軌を一にする弱点を抱えているからではないのかと思えてくるのだ。

 東大医学部の誕生

 ここで、東大医学部の歴史とその功罪を検証してみよう。

 東京帝国大学医学部は、明治五(一八七二)年に修業年限を予科二年、本科五年と定めた。毎年九月に新入生を受けいれることになったが、開校当時は一四歳から一九歳までの少年で、藩校などで一定の教育を受けていることが前提であった。

 第一期生というのは、明治四(一八七二年九月に入学した本科四〇人、予科六〇人で、教師は、ドイツ人医師レオポルトーミュルレル(外科)、テオドールーホフマン(内科)であった。

 ミュルレルとホフマンにつづいて、ドイツ人教師は多数日本にやってくる。このとき、ドイツ政府と明治政府とのあいだで約定書のようなものが交わされた。そのなかには、「日本の医者は決して両人の上に立つべからず、席は別当の次席たるべき事」とあり、ドイツ側か教師に対する礼節を執拗なまでに要求していたことが目につく。

 こうして、日本で最初の大学医学部として、明治四年の開校時には次の課目を教えたと記録にはある。

〔本科〕

一年 記載解剖学、無機化学、鉱物学、動物学、生理各論、理学、外科総論、有機化学、植物学

二年 解剖技術、化学演習、生理総論、外科各論、包帯学、病理および内科総論、組織学、薬性学、整骨学、病体解剖

三年 解剖復講、生理復講、病理および内科各論、外科手術学、外科臨床講義診断学、製薬学、内科臨床講義、外科臨床講義(自修)、外科手術演習

四年 眼科学、産科学、外来外科臨床講義および活体手術、内科臨床講義(自修)、屍体上截断および手術演習、外科内科臨床講義(自修)、眼科臨床講義、婦人病、産科臨床講義および外来婦人病臨床講義、外来外科臨床講義(自修)、医律

五年 病院実習

 ここにとりあげた課目は、いずれも当時、ドイツの大学医学部で行われていた医学教育の翻訳版である。かの地の課目が、現在の東大医学部にまで受け継がれている。第二章でも指摘したように、消化器、呼吸器といった臓器別の教育ではなく、生理学・解剖学・病理学という学問上での区別に基づいたカリキュラムとして生きているのだ。

『物語 大学医学部』保阪正康著より