いじめぬかれた稲田竜吉

 

 青山胤通が他界したのは、大正六(一九一七)年である。後継者が誰になるか、それが青山派の教官たちの関心事であった。当時、京都・九州・東北・北海道に帝国大学があり、全国には医学校も数多くあった。そこに青山派の人脈がぞくぞく送りこまれていたが、そのなかには、後継者は自分しかいないと自負する研究者も多かった。

 しかし周囲の注目のなか、指名されたのは、九州からやってきた稲田竜吉であった。稲田に対して青山門下の東大医学部出身者たちは、陰に陽にいじめぬいた。まるで御殿女中のようないびり方だったと、その時代の様子が、のちの「東大医学部」(『中央公論』昭和二六年五月号)という医学記事には書かれている。

 稲田は、権力闘争に類するようなことは好まなかっただけに、それは目に余るほどのものだったという。

 生前、青山は、全国の医者養成機関に門下生を送っていただけではなく、東大医学部内部の権力闘争でも、内科教授の三浦謹之助や入沢達吉と人脈の拡大をめぐって確執をつづけていた。「内科を制する者が、東大医学部を制する」といわれていた時代である。

 この三人の教授のなかで、三浦は医療技術にもっとも優れた人物だったにもかかわらず、官界・政界・財界要人の診療にあたる折の、「まず次の問で低頭し、それから静かに立膝でにじりよって行う」という、なんとも古めかしい慣習になじまなかったため、派閥争いから脱落してしまったというエピソードがある。

 逆に、入沢は医学部長の席にあり、門下生を大病院や県立病院に多数送りこんで、青山と争っていた。このあたりの駆け引きや勢力争いは、当時の政治家・官僚・軍人の世界とまったく同種のものであった。とにかく自らの影響力を広め、その威信を守ろうと戦々兢々としているだけである。

 これが一面では日本の医療が発展するためのバイタリティを生んできたのだが、同時に、医学部のなかに歪んだ構造を培う原因だったともいえる。

『物語 大学医学部』保阪正康著より