動く遺伝子

 

 ヒトの体は約60兆個の細胞から成り立っている.すべての細胞が1個の受精卵より細胞分裂を繰り返してできたものであるため,まったく同一なセットの約30億塩基対からなるDNA(これをゲノムと呼ぶ)を持つ.ところが細かい領域まで考慮すればすべての細胞のDNAがまったく同一の塩基配列を持っているわけではない.その理由はDNAのごく狭い領域が動いて他の領域に挿入されているからである.不変不動であると考えられてきたDNAが動きまわるという革新的なアイデアを提唱したのはマックリントック(B. McClintock)で,実に遺伝子がDNAであるかどうかさえわかっていなかった1940年代のことであった.彼女は,長年にわたって斑入リトウモロコシの遺伝の仕組みを研究し,独自の膨大なデータに基づいた精密な解析により,遺伝子が動きうると考えざるをえないという結論に達した. 1951年には可動遺伝性因子あるいはトランスポゾン(tran-sposon)という概念を提唱したが,それは発表当時あまりにも斬新なアイデアであったせいか,ほとんど受け入れられずに無視された.彼女の発表から16年後の1967年,大腸菌の中にトランスポゾンがみつかってはじめて人々はマックリントックの先見性に驚いたのである.幸にも彼女は長寿であったため,82歳にしてノーベル賞の栄誉に輝いた(1983年).トランスポゾンは中央領域の両端に反復配列を持つという共通構造を有している.その後,多くの生物種においてトランスポゾンがみつかるようになり,動く遺伝子は今日では広く生物界に起こっている重要な現象として認識されている.

 

 ヒトをはじめとした脊椎動物に存在する動く遺伝子の例として白血病や肉腫を惹起するレトロウイルス(retrovirus)がある.エイズウイルスもレトロウイルスの一種である.レトロウイルスは中央DNA領域として3つの遺伝子を持ち,その両端をLTRと呼ばれる数百塩基対からなる反復配列が挟んでいる. LTRはU 3, R, U 5の3つの要素からなり,その中には下流の遺伝子の転写を促進する塩基配列が含まれている.レトロウイルスの遺伝情報は自身の持つ逆転写酵素の作用によってRNA型からDNA型に変換され,それが直鎖のままあるいは環状化することによって宿主ゲノム上のさまざまな位置に挿入されうる.挿入されたウイルス遺伝子はLTRの持つ転写誘導信号に従い,宿主の転写機構を利用してウイルス全長を転写し,タンパク性の外皮に包まれたウイルス粒子を形成させる.左側のLTRはウイルス遺伝子の転写に使われるが,右側のLTRは偶然に挿入位置に存在していた遺伝子を無制御の状態で転写誘導する.もしその遺伝子が通常は発現が停止しているべき増殖誘導因子をコードする遺伝子であれば,その無秩序な発現は細胞の無秩序な増殖,つまりがん化を引き起こしてしまう.これがウイルス発がんにおける発癌機序として認められている1つのモデルである.