三徴候死と脳死の違い


 従来の死の判定にかわって脳死でもって「人の死」を判定しようとすることの意味はどこにあるのでしょうか。

 従来の死の判定基準は、①呼吸停止、②心拍停止、③瞳孔散大と対光反射消失という、いわゆる「三徴候死」と呼ばれる基準です。これは人間の生存にとって非常に重要な意味をもつ呼吸系、循環系、神経系という三つのシステムすべての機能停止をもって死を判定するという考え方です。この三徴候はある意味では古くから人類がもってきた経験的な知識ですが、同時にそれはこの三つのシステム系それぞれが人間存在にとって等しく重要性をもっているとする人間観の表明でもありました。

 一方、脳死は、脳という一臓器の死を指しているに過ぎません。したがって脳死をもって「人の死」とすることは、他の臓器あるいはシステム系が相対的には人間存在にとってどうでもよいということの表明でもあります。つまり脳死ということは、脳という臓器あるいは、神経系という一つのシステム系に特権的地位を与えるという従来とは別個の新しい人間観の表明なのです。三徴候死と脳死というこの二つの判定基準の間には明らかに人間観の質的な差が存在しており、それは単なる医学的問題や技術的問題には還元できない根本的な立場の差の問題でもあるのです。

 そういう意味ではときどき見受けられる三徴候死=心臓死とする議論は正確ではありません。三徴候死=心臓死としうるのは、従来ほぼ同時に起こっていたこの三つのシステム系の死をたまたま心臓で代表させたという場合のみであり、そうでなければ心臓死というのはあくまで心臓という一臓器の死、あるいはそれを強調する立場ということになるでしょう。象徴論的な意味や霊的な意味で心臓を特別視する立場は当然考えられますし、そういう立場から心臓死=「人の死」とすることがあっても不思議ではありません。ある意味ではわが国における三徴候死=心臓死とする議論の幾分かには、そういったニュアンスがふくまれているのかも知れません。

脳死という概念の出現


 脳死とは、脳が死んでいる状態、あるいは脳の機能が不可逆的に停止した状態をさす言葉として一般に定義されています。この脳が「死んだ」状態と脳の機能が停止した状態とをイコールとみるか、それとも別個のものとみるかによって議論が分かれてくるのですが、そのことは後にゆずるとして、とにもかくにも「脳が死んでいる」と考えられる状態をとくに表す言葉として、脳死という言葉が出現してきたのです。

 すでに今世紀のはじめから、今でいう脳死の状態が存在することはH・クッシング等の医師によって、実験的、または臨床的に経験されていました。しかし、当時においてはその状態を、とくに脳死として特別なものとしては認識することはなかったとのことです(福間誠之『脳死を考える』、日本評論社、一九八七)。脳死がとくに問題となってくるのは、近代医療技術が進み、機械的人工呼吸がおこなわれるようになってからのことです。

 一九五九年にはフランスで人工呼吸器をつかった患者が、脳が機能している証拠もなく生かされている状態を過度昏睡と呼び、この問題について議論するためのシンポジウムが開かれています(太田富雄訳『脳死』、メディカル・サイエンス・インターナショナル)。当初は限りある医療資源を脳死者に対して費やすべきかどうかといったような、脳死者に対しての治療の是非の議論が中心だったようですが、一九六七年末に南アフリカのクリスチャン・バーナードがおこなった世界初の心臓移植手術によって議論の様相は大きく変わり、議論の表舞台にさっそうと登場した脳死は、従来のものに代わりうる新しい死の概念として整備されていくようになったのです。

 そういう意味では、脳死と臓器移植との本質的な無関係さ(唄孝一 『臓器移植と脳死の法的研究』、岩波書店、一九八八)にもかかわらず、脳死はその当初から臓器移植と切っても切れない関係にあったとも言えるでしょう。たしかに初期の心臓移植手術は、心臓提供者の心停止を確認してからおこなっていたので、かならずしも脳死者からのものではなかったのですが(米本昌平『先端医療革命』、中公新書、一九八八)、しかし従来の死の判定の拠り所となっていた心臓そのものの移植というその性格ゆえに、それは確実に死の定義の見直しを迫るものであったと言えます。実際に翌年の一九六八年には早速、以後の脳死判定基準の原型となることになる(Iバード大学医学部の特別委員会による基準が報告されています。

 日本においてもこの辺りの事情は似たようなもので、一九六八年に日本脳波学会が「脳波と脳死委員会」を発足させて脳死判定基準作りを開始するのは、いわゆる和田心臓移植の二ヵ月後でした。どちらにせよ心臓移植手術が脳死判定基準作りをリードするという構図には変わりがありません。

 そもそも死の判定そのものは、人類の誕生以来ずっとおこなわれてきたもので、歴史上医師の独占業務になったのは比較的最近のことでしかありません。ある意味で人が生きているか死んでいるかというのは、一定の時間経過さえ見ていれば、「あっ、これは生きている」「あっ、これは死んでいる」とだれにでも判断のつく現象にほかなりません。そういう意味では、生物システムとしての有機的統一性の破綻から腐敗にいたる一連の連続的過程の中にこそ死が存在するのであって、人はその過程をひとわたり見たうえで事後的に死が訪れたことを確認し、その上うにして人類はずっと死の判定をしてきたのです。

 そのうえ医師の専門職集団が出現してくるのは一八、一九世紀以降のことですから、それ以前は医師に判定を委ねること自体が大半の人びとには無理なことだったのです。一九世紀を通じて資格制度などの整備をすすめ社会制度的にも地歩を確立しつつあった専門職集団である医師が、複雑化する近代社会の制度的贅請を受け、科学性にもとづく信用を背景にして死の判定という業務を独占することになったのです。もっとも独占といってもその判定基準は息が止まり、脈がなくなって、瞳孔が開くという、いわゆる「三徴候死」と呼ばれる常人にも十分納得可能なものであったからこそ、その権限が依託され得ることが可能だったのでしょう。

 さらに近代社会は、死の時刻の特定という新たな社会的要請を医師に求めるようになりました。近代は普遍的時間の支配する世界を作り出したと言われますが、そういった社会では物事の継起の後先が重要な意味をもってくるようになります。とくに近代的市民としての権利と義務の存在の如何を左右する生死の転換の時刻を一つの瞬間に特定することは非常に重要な操作的行為であり、そこで死という本来は連続的な過程のなかに、大きな不連続を生みだす一つの決定的な瞬間をもうけることが必要になってきたのです。

和田心臓移植の問題点

 わが国で最初の心臓移植手術であり、また現在の臓器移植にかかかる論議のなかでも最大のネックである「医療界に対する不信」の出発点にもなった、いわゆる和田心臓移植事件について、主に中島みち『見えない死』(新訂版、文芸春秋、一九九〇年)を参考に問題点を概観してみまし

 非常にかいつまんで事件のあらましを述べれば、一九六八年八月八日札幌医科大学胸部外科教授和田寿郎教授が、水死した二一歳の東京の大学生山口義政君の心臓を、心臓弁膜症で苦しむ一八歳の青年宮崎信夫君に移植し、その後、宮崎君は手術後八三日目に亡くなったというものです。

 同年末に、和田教授は大阪の漢方医らに殺人罪で訴えられましたが、札幌地検では「疑惑は残るが証拠不十分」とのことで不起訴となっています。石垣純二、川上武、中川米造、松田道雄、若月俊一ら「和田心臓移植を告発する会」は検察審査会に申し立てをおこない、審査会は不起訴処分を不相当とし起訴を促したが、結局一九七二年、札幌地検において不起訴が確定するにいたっています。

 この事件の問題点は大きく二つあります。一つは心臓提供者(ドナ土である山口君の死の判定に対する信憑性であり、もう一つはレシピエントである宮崎君の心疾患の重症度と移植の適応についての妥当性の問題です。

 まずドナーの山口君についてみてみましょう。山口君は仮死状態で見つけられよしたが、約四〇分後に息を吹きかえし、小樽の病院に運びこまれました。その後は、同病院で容態は安定していたのですが、なぜか札幌医大で高圧酸素療法を受けることになり、四〇キロ離れている札幌医大の胸部外科まで運ばれることになりました。午後八時過ぎに札幌医大に到着しています。到着時には自発呼吸、心音、脈搏等はしっかりしていたのですが、しかし高圧酸素室に入ってわずか二〇分後には気管切開されることになり、さらに一〇分後には和田教授から山口君の両親へ心臓提供の依頼がされています。そのうえ、そのI〇分後には自発呼吸、循環機能にも問題がないにもかかわらず、救命上は必要のない人工心肺に山口君をつないでしまっています。午後一〇時すぎには脳死の状態と宣言されるのですが、脳波をとった明らかな証拠は残っていません。

 翌朝午前二時八分の段階で山口君の心臓は心電図上まだ動いていることが確認されていますが、以後、人工心肺を停正した二時二七分までの記録が欠落しています。そしてその三分後の二時三〇分にはもう心臓が摘出されてしまっているのです。事件後の証拠調べを通じて札幌地検も「山口君が心臓摘出の段階で生存していたか否かは、死体解剖をしていないこともあって、認定できない」としています。脳波の記録もなければ、心電図記録も不十分、そのうえ非常に早い段階で人工心肺につながれてしまっていては、生きているものとも死んでいるものとも全く判断ができないというのです。

 しかし、何のために札幌へ送られ(和田教授と小樽の病院長は懇意であったうえ、和田教授は過去に溺水者の治療に高圧酸素治療をしたことがない)、何のために早々と人工心肺につながれ、どうして医大到着後たった一時間あまりで両親へ心臓提供の依頼がされたかなど、多くの疑惑は残ったままなのです。

 次にレシピエントである宮崎君の方の問題点を見てみましょう。宮崎君の心疾患の重症度について和田教授け、僧帽弁閉鎖不全症、三尖弁閉鎖不全症、大動脈弁狭窄症の三つが重なり、重度の心不全であったとしています。ところが、かれを胸部外科に紹介した第二内科の宮原教授は、臨床診断名は僧帽弁狭窄兼閉鎖不全症であり、人工弁置換の適応として胸部外科に紹介しただけであって、三つの弁すべての器質的障害とは考えてもいなかったというのです。この宮原教授の臨床所見の方が、心臓移植後摘出された宮崎君のもともとの心臓の病理学検査ともよく合致しているということです。

 さらに、この宮崎君がもともと持っていた心臓の病理検査についてはミステリーが二つあります。

 第一にはこの取り出された心臓自体が移植後半年近くも所在が明らかにされておらず、社会的注目を浴びてはじめて病理検査を受けるにいたったということであり、第二に両教授の診断の相違のポイントになる大動脈弁が何ものかによって切り離されてしまっており、そのうえ切り離された弁は宮崎君の心臓とうまく大きさが合わないという摩訶不思議なものであったということです。また、重症といわれる心不全の程度についても、宮原教授によると転科時は心不全が改善していたとのことでした。そのうえ、重症心不全により心筋は肥大するものなのですが、宮崎君の摘出心臓の重量は、当初和田教授が六五〇グラムと報告していたにもかかわらず、実際の病理標本では四九〇グラムしかなかったのです。ここでもやはり疑惑が残っています。

 素人目でも疑問だらけに見える和田心臓移植ですが、この事件がわが国での臓器移植にかかわる論議に対してどんな影響を与えているのでしょうか。それは大きく分けて二つの点が指摘されるでしょう。まず第一には臓器移植およびそれにかんする論議に大いなる空白を生みだしてしまったことがあげられると思います。そして第二にはさまざまなレベルでの医療や医療者に対する国民の不信を招いてしまったことです。以下にこの二点についてもう少しくわしくみていきましょう。

 まず第一の点ですが、和田心臓移植が社会問題化していく中で、わが国では臓器移植そのものが夕ブーになってしまうような状況が生まれました。それもたんに移植手術そのものがおこなわれなくなっただけでなく、移植にかんする論議までもが医学界の内外を問わずされなくなってしまったのです。結果として、わが国では臓器移植にかんする壮大な空白が生みだされることになりました。

 欧米においても、初期の駆け込み的な心臓移植ブームに対しては、あまりにも実験的すぎたとして多くの批判を浴びることにはなりました。しかしその中で、今後どのような形でなら臓器移植が可能になるのかという議論が、脳死概念の整備もふくめて欧米では地道に続けられてきたのです。しかしわが国では、医学界を中心に臓器移植に対しては貝のように口を閉ざすことになってしまったのです。そしてこの大変な論議不足が、今になって臓器移植再開への障害として、当の医学界の前に大きく立ちはだかることになってしまったのです。まさに第一の問題点は、医療界の「公開の議論を避ける閉鎖性」にあると言えるでしょう。

 次に和田心臓移植がさまざまなレベルで国民の不信をまねく結果になった点について見てみましょう。

 まず第一には心臓移植、脳死判定に対する不信を国民の中に生みだしたことがあります。今日の心臓移植、脳死判定に対する不信の一部は、確実にこの事件の影響のもとに形成されたものであり、医らせる結果になり、大学や医局に対する不信をまねくことになりました。そして最後には、この事件に対する疑惑を独自に解明できないばかりか、社会問題の土俵にまで引き出されたものを、積極的に身内をかばい臭いものに蓋をすることで幕引きをはかった医学界の密室性、非民主性が国民の医学界に対する不信を招いたのです。「民主主義」の問題が第二の大きなポイントになっているのです。

第一次心臓移植ブーム

 臓器移植への前史は、輸血、角膜移植、皮膚移植にはじまります。輸血は一八世紀を通して何度も試みられてきていました。しかし血液型という概念のない時代に、血液型を無視して輸血することは殺人でしかなく、結果として多くのヨーロッパ諸国では法的に輸血が禁じられることになっていきました。

 安全な輸血が一般化するのは今世紀に入ってからです。角膜移植は、一九〇五年からおこなわれています。一九四〇年代には広く一般的におこなわれるようになり、一九五〇年前後には、フランス、イギリスで角膜移植にかんする法律が整備されるようになっています(唄孝一『臓器移植と脳死の法的研究』、岩波書店、一九八八)。また、皮膚移植がおこなわれるようになったのは一九二〇年代後半からです。

 本格的な臓器移植への第一歩は、今世紀に入ってからアレクシス・カレル(一八七三~一九四四)が二つの血管の吻合(縫い合わせ)を可能にしたことからはじまったといわれます。

 一九三六年にはソ連の外科医U・ボロノイが人間における世界初の腎臓移植手術をおこないましたが、その患者は二日後に亡くなってしまっています。一九五四年にはアメリカのジョセフ・E・マレーが最初の成功した腎臓移植手術をおこないました。一卵性双生児間の生体移植で、移植を受けた患者(以下レシピエントとする)は、八年後に心臓麻痺で死ぬまで元気に生き続けていました。また、一九六三年にはアメリカのトマスーアール・スターツルが最初の肝臓移植手術に挑んでいます。脳手術中に死亡した少年の肝臓を、肝臓病で瀕死の同年齢の少年に移植したのですが、結果は無残なことに出血多量により、手術終了前に亡くなってしまっています。

 こういった試行錯誤の歴史の中でとりわけ全世界の耳目を臓器移植に集中させたのが、一九六七年暮の南アフリカのクリスチャンーバーナードによる世界初の心臓移植手術でした。従来より移植医療の経験蓄積の多かったアメリカは、すぐさま一番手を取られた汚名を晴らすべく、その三日後にカントロビッツが世界で二例目の心臓移植手術をおこなっています(米本昌平『先端医療革命』、中公新書、一九八八)。

 こうして堰を切ったように世界中ではしまった心臓移植ラッシュは、当時アメリカ医学協会の優秀医学賞を受けた心臓専門医アービン・ページの言葉によると「われもわれも、軍団の一員になろうと、世界中でレースが開始されたようであった」。そしてこの軍団の中に、わが国で唯一の心臓移植手術、いわゆる和田心臓移植もふくまれていたのでした。この一大心臓移植ブームの収支決算は「バーナードの『ケープタウンの奇跡』以来わずか三年、一九七〇年末までに 一六六例の心臓移植が世界中で実施されたが、米国心臓協会の調査によればそのうち二三人しか生き残っていなかったのである。死亡率八五%という驚くべき数字であった」。

 こうして第一次心臓移植ブームが終熄していったのですが、この間の経験は臓器移植がどういう医療なのかという特徴を浮かび上がらせるものでした。それは、臓器移植においては、重要なのは手術それ自体ではないということだったのです。大半の症例の死因は免疫による拒絶反応でした。つまり、問題は手術をしてからなのであり、この長期にわたる術後の免疫管理が、この治療法の成否を決定するものだったのです。

イントロダクションの構成:テーマ・センテンス

 学生Aは、ともかくも一つのパラグラフを書き上げた。過去における女性の役割りについて書いたあとで、学生Aは一つの発見をした。今まで、過去は過去だと思っていた。だが過去の女性も働いていた。今日の女性だけがいわゆる゛自立″しているのではない。考えていた以上に、過去と現在には共通点があるのかもしれない。 とすると、未来はどうなるのだろう?

 一つのパラグラフを書き終えたことで、学生Aには全体のプランが見えてきた。

 そこで学生Aは、全体のくわしいプランを書き出したのである。そのプランを順序通りに、まず「イントロダクション」の部分から英語でしるしてみよう。

イントロダクションの構成
 Introduction
   Point l: equal working opportunities
   Point 2: other areas where sexual equality has been achieved
 Thesis Statement: Despite the very real advances women have made, women today have more in common with the women of the past than they perhaps realize.

 ちょっと寄り道して説明すると、イントロダクションである第1パラグラフの構成は、次に続く議論の主要部分を占めるボディ・パラグラフの構成とは、少々違っている。

 「イントロダクション」と「ボディ・パラグラフ」の違いを表で示してみよう。

   Introduction
Detail to catch the reader's attention (N.B. it should be related to the subject of the essay)

Expansion of Theme
Thesis Statement
 Body Paragraph
Topic Sentence
Supporting Points
Concluding Sentence

 前にものべたように、「ボディ・パラグラフ」の構成は①トピック・センテンス、②それを支えるポイントの主要部分、③結論センテンスである。

 それに対し「イントロダクション」は読者の注意をひきつけるためのいくつかのことにふれる。 そしてそのテーマを拡大して、最後に“thesis statement”がくる。

 これは何かというと、「テーマは何か?」を示すためのセンテンスである。以下“thesis statement” を゛テーマ・センテンス″とよぷ。

 この゛テーマ・センテンス″は、トピック・センテンスに似ている。ただ違いは、トピック・センテンスはそのパラグラフの主題が何かを示すものであるのに対し、テーマ・センテンスは、ペーパー全体の主題が何であるかを示すという点である。テーマ・センテンスを読むことによって、読者は全体の主題が何であるかを知ることができる。

 そしてこのテーマ・センテンスは、一つの文か複数かは別にしても、ふつうはイントロダクション・パラグラフの最後にくる。

 学生Aは「イントロダクション」に二つのポイントを入れることにした。

 ポイント1は、今日の女性には、働く機会が男性と同等に与えられていること。ポイント2は、他の分野でも男女同権が達成されたということである。

 そしてテーマ・センテンスは、

 「女性がなしとげたこれらの進歩にもかかわらず、今日の女性たちは、自分たちが気づいている以上に過去の女性だちとの共通点をもっている」である。

論文のプランを立てる:「型」を利用する

 論文のプランを立てるのは、一つか二つパラグラフの下書きをしてみる前でも、してみてからでもかまわないが、プランを立てるときにもっとも重要なのは、アイディアの流れ、つまり議論、論証の流れがスムーズにいっているかどうかである。

 そのためには、アイディアを生まれさせ、グループ分けする下書きはよい手段であった。

 なかには、この段階だけで充分、これだけでいくつものアイディアをどう結びつけどう発展させるのかわかるという人もいる。こうぃう人たちは直ちに書き始め、書き進むうちにパラグラフを整えていくだろう。

 だが、なかにはパラグラフの細部までもっときちんとプランを立てなければ、書き始められない人もいる。それはそれでいいし、きちんとしたプランを立てるということは、それぞれのアイディアに与える゛ウェイト″も考えたバランスのとれたものになるだろう。

 ゛バランス″どウェイト″についてもすでに以前に紹介したエッセイで、サイズが不規則であることに関連してふれてきた。書き直された英語エッセイのほうは、それぞれのアイディアに同じくらいの゛ウェイト″がおかれていた。と同時に、トピック・センテンスは、それを支えるために二つか三つの例が必要で、一つでは少なすぎるとものべた。一つでは、゛バランス″がとれていないという印象を与えるのである。

゛型″を利用する

 日本語エッセイが自然の調和を重んじるとするならば、英語エッセイもまた、゛調和″を重んじるのである。ただそれは、自然のそれではなく、論理による調和なのである。

 そしてその調和を生み出すために、多くの書き手は、以下のような、もしくはこれに似だ型″を用いる。
Topic Sentence:
    Point 1:
    Point 2:
    Point 3:
Concluding Sentence:

 トピック・センテンスの次に、ポイント1、2、3、そして結論センテンスと並べてみたが、これはトピック・センテンスで示したこのパラグラフのテーマをよりくわしくのべるためのポイントである。例をいくつか並べてもよい。どちらにしても、トピック・センテンスで示したテーマを支えるためのアイディアを並べるのである。

プランどおりに書かれているか

 この゛型″を、学生Aが書いたパラグラフを使い実際にあてはめてみると、次のようになる。
Topic Sentence: In the past, women's work was often related to the home.

 Point 1: domestic duties
       e.g. housework, looking after children
 Point 2 : different ways of earning money
       e.g. selling eggs, dairy work, spinning
 Point 3: important contribution to family income supplement to husband; sole

Concluding Sentence: In addition to their domestic duties the housewives of the past had animportant economic function as well.

 トピック・センテンスは、

 「In the past, women's work was often related to the home」

 であった。

 過去における女性の仕事は多くの場合、家庭内であったというのが、このパラグラフのテーマである。

 次に゛ボディ・センテンス″にあたる中心部分は、るということである。三つのポイントで゛トピック・センテンス″の例をあげている。
 ①家事労働一家事、育児など
 ②収入を得るやり方  鶏に生ませた玉子を売ったり、乳製品、糸紡ぎ。
 ③家計への重要な貢献。夫の収入に加えたり、時には妻の仕事だけが一家の収入源ということもある。

 そして結論のセンテンスは、
 「In addition to their domestic duties the housewives of the past had an important economic function as well」

である。

 昔の主婦は家庭内での家事のほかに、いろいろの方法で収入を得ており、それなりに経済的にも重要な役割りを果たしていたというのである。

 この学生Aのプランの中では、トピック・センテンスと最終の結論センテンスだけが完全な文章の形で書かれている。この二つの文は、書き手の思考に方向性を与えるためにも重要なので、明瞭に表現されるのが好ましい。だが三つのポイントは、メモ風に簡単に書かれている。 しかし、ここでも一つの例では足りず、三つのポイントが並べられている。このプランと、さきほどのパラグラフ構成の見本とは非常に近い。

 つまり学生Aは、型通りに自分のプランを立てているのである。

 

パラグラフとエッセイの構成上の類似点

パラグラフはユニットに相当

 一つのパラグラフが一つのユニットであるという考え方は、形の上からも視覚的に判断できる。パラグラフの1行目は、改行し、それも字を少し下げて始まる。ゆえに、「ここから新しく始まりますよ」と、形の上でも告げ、読者に、(新しいアイディアが出てくるのだ)と準備をさせることになる。また、書き手によっては、パラグラフとパラグラフの間を1行あけ、より区分を明確にする人もいる。

 このように、英語ペーパーでは、それぞれのパラグラフが独立し、一つずつのアイディアを表現している。

 ではバラバラなのかというと、そうではない。煉瓦作りの家をイメージしていただきたい。一つ一つの煉瓦は確かに1個の物体として独立している。だが、それらはセメントで結合され、1軒の家を形作るのである。パラグラフは、個々の煉瓦。そして家は、エッセイに相当する。

 前にあげた①②③④の部分をもう少し整理し、それぞれのパラグラフがどう独立しているかを示すと、次のようになる。

 一つのパラグラフは以下の三つの部分を含まなければならない。
①トピック・センテンス
②主要部分
③結論センテンス

 このことは、それぞれのパラグラフについてなのだが、でば家″全体ではどうなるのだろうか。独立した個々の煉瓦で組み立てられている家にも、リビング・ルーム、台所など、全体としてみれば、役割りが大きく分かれている。

 同じく、エッセイを全体として見た場合には、やはり、
①導入部分
②主要部分
③結論部分
 と、個々のパラグラフにおける三つの部分が必要なのである。

 ゛論理的構成″をしっかりすることが書き手の最重要課題であることは、このようにパラグラフ構成とエッセイ構成が非常に似ているという事実にも反映している。             
 形の上で、パラグラフとエッセイ全体の書かれ方は、それぞれ似ているのである。

 まず両者の構成を英語で示そう。

   Paragraph
①Topic Sentence
 (focuses the paragraph)
②Body Sentences
 (illustrate the ideas in the topic sentence)
③Concluding Sentence
 (ties together the ideas in the body)

     Essay
①'Introduction
 (focuses the essay)
②'Body Paragraphs
 (illustrates the ideas in the introduction)
③'Conclusion
 (ties together the ideas in the essay)

 パラグラフの見地からみると、①まず、トピック・センテンスがくる。このセンテンスの役割りは、そのパラグラフの焦点がどこにあるのかを示すものである。

 エッセイでそれに相当するのは、①のイントロダクションの部分である。エッセイ全体の焦点を示す。

 次に、パラグラフでは、そのパラグラフの中心部分となる②の“body sentences” がくる。この何行かは、トピック・センテンスを受けて、このパラグラフの焦点となるアイディアを展開するものである。

 エッセイでも、②の“body paragraphs” がくる。こちらは何行というセンテンスではなく、一つのパラグラフを中心部分にもってくるか、二つ三つ、またはそれ以上をもってくるのかはエッセイ全体の長さによる。だが、イントロダクションを受けて、そこに紹介されたいくつかのアイディアについて論を展開するという基本的な形においては、②と似ている。

 パラグラフの③は、結論をのべる最終センテンスである。これは②の部分のアイディアをまとめ、結論とする。

 エッセイも③で結論がくる。ここに一つのパラグラフを用いるか、それ以上かはエッセイの長さによるが、ともかくエッセイ全体で論じられたことの結論をここで示すのである。                卜
 ゛パラグラフ構成″どエッセイ構成″は、まさに平行している。

 つまり、同じような構造をもったパラグラフをいくつかまとめて、全体として一つのエッセイを作る。逆に言うと、一つのエッセイの中には、いくつかのパラグラフが含まれるのだが、その一つ一つのパラグラフを取り上げてみると、エッセイ全体にみられるような①②③の点が、それぞれのパラグラフに含まれている、ということである。

 エッセイの①の部分、②または③の部分に、それぞれいくつのパラグラフを用いるかは、エッセイの長さによる。

 書いたそれぞれの部分、つまりパラグラフの構造においても、また、全体のそれの中でも、書き手が何をどうしようとしているのかを、読者に示さなくてはならないのである。

 そしてそうするためには、プランをしっかりと立てる必要がある。

パラグラフの構成:トピック・センテンスと結論文の役割り

 ゛パラグラフ″とは、それぞれに、以下の点を含むものである。

 ①パラグラフごとに、そのパラグラフのメイン・アイディアを示すこと。

 ②そのメイン・アイディアは、そのパラグラフの前の方にくるトピック・センテンスで示すこと。

 ③主要部分は、トピック・センテンスで表現された、そのパラグラフのメイン・アイディアを支えるものであること。
 ④結論

 そして、1パラグラフのセンテンス数は、ふつう六つから八つである。

 次に、以上の要点の説明をしよう。

 まず、1パラグラフが六つから八つのセンテンスからなるという点は、それより短いとそのパラグラフのメイン・アイディアの要点を説明できない。また、それより長すぎると、複雑になるからである。この長さは、読者にとってはどの要点で始まり終わるのかを一瞥できる、ちょうどよい分量ということになる。

 ①と②は、一緒に説明しよう。

 トピック・センテンスは、そのパラグラフのメイン・アイディアを示す。

 学生Aが最初に書いたパラグラフのメイン・アイディアは、“women's work in the past"である。そして、第1パラグラフではどの点に焦点をあてるのかを示し、読者の注意をそこへ引きつける。

 学生Aのトピック・センテンスに盛るべき内容は、「過去における女性の仕事は、家庭と関係がめった」ということである。 そこで、トピック・センテンスぱ、
  「In the past, women's work was often related to the home」

 と、事実をそのままのべて、トピック・センテンスとしている。 トピック・センテンスの役割りは、パラグラフの焦点と範囲を示すことである。

 このトピック・センテンスは、かなり一般的な事実をのべている。 そして、では過去の女性たちはどのような仕事をし、それはどのように家庭と関連があるのか、と具体化していくことになる。そしてこれらの具体的な細部がすべてトピック・センテンスを支え、直接的な関係をもつのである。関係のないインフォメーションをはさむことは許されない。

主要部分の役割り

 「過去における女性の仕事は家庭と関係があった」とするなら、どう関係があったのかを例証していくのが、③の主要部分の役割りである。夫が外で働くのに対し、妻は家にとどまり、家事や育児をする。これが゛仕事″の内容の第1.と同時に、2番目としては家庭内で収入を得る。これに対し、三つの方法があげられている。鶏を飼育して玉子をとり、その玉子を売ること。乳をしぼり、乳製品を作ること。または糸を紡ぐことである。“This latter”ぱspinning thread"を指す。 そして、この仕事は家庭婦人にとっての重要な営みであったので、“the distaff side 0f the family" という表現が生まれている。“distaff"とは糸巻き棒で“spinning"に使用するのだが、゛家庭の糸巻き棒側″というのは、“female sideof the family"を意味する。すなわち、一家の中の女性たちのことである。男性の象徴が剣であったように、糸巻き棒は女性の象徴であった。品物がこうぃう表現に転化されたことを見ても、糸紡ぎが過去の女性たちの生活に占めた重要性がうかがえる。

 これらの仕事は家庭内労働ではあるのだが、家計の足しとしては重要なものであった。 “The family income"の“income"は数えられないものなので単数、まだthe"をつけて家庭の収入の総称になっている。“Salary"は夫のそれ、妻のそれ、2人の“salaries”と数えることができるが、“income”はできない。

結論センテンス

 ④の結論センテンスについては、以前紹介したエッセイではふれなかった。というのは、あのエッセイはもともと非常に短く、しかもそれぞれのバラグラフがポイントを短く明瞭にしているので、パラグラフごとの結論センテンスは必要ではなく、エッセイ全体の結論を最後にもってくればよかったからだ。新聞や雑誌記事でよくみるスタイルである。

 しかし、より長く、そしてより改まったものにおいては、パラグラフごとに結論センテンスをおくのがよいとされている。つまり、それぞれのパラグラフの最後のセンテンスで、そのパラグラフでのべられたことを関係づけ、一応の結論を出すのである。

 この結論の出し方には、何通りかのやり方がある。

 パラグラフの内容を要約してもよいし、結論をのべてもよいし、予見してもよいし、解決法を提示してもよい。

 学生Aが最初に書いたパラグラフの結論センテンスは、もちろん、そのパラグラフの最終センテンスである。

  「In recent years the words“housewife”and“homemaker” have come to mean women who are solely or primarily concerned with home and family, but the housewives of the past had an important economic role as well.」

 このセンテンスの前半は、トピック・センテンスの「女性の仕事は家庭と関係があった」というアイディアを受け、それをもう一度強調している。そして、“but"以下は、過去の家庭婦人がすでにのべたような仕事で家計を助け、経済的役割りもになっていたとしている。この部分を別な文章に書きかえれば、「Women's work,though domestic in nature was important financially」となる。

 このパラグラフのトピック・センテンスと結論センテンスを並べてみる。

 (a)トピック・センテンス

  「In the past, women's work was often related to the home.」

 (b)結論センテンス

  「……but the housewives of the past had an important economic 「01e as well.」

 この二つを並べてみると、両者の関係がいかに緊密であるかがわかるだろう。

 このパラグラフのテーマを示すセンテンス(a)を受けて、そのパラグラフの結論である(b)が出てくるのである。

 (a)、(b)ともに女性の仕事一般について、それがどう家庭生活と関係をもつかをのべ、最初と最後、つまり前後からそのパラグラフを取り囲み、統一し、メイン・アイディアを明らかにし、そして次の段階へと移行する素地を作っているのである。

英語論文を書くに当たっての最大の障害

 日本人が欧米語のペーパーを書くに当たっての最大の障害は、(自分は、かなりその言語に通じている)という意識というか、自信であろう。

  外国語学習の諸段階を、「聞く、しゃべる、読む、書く」と四つに分けて表現されることが多いが、゛書く″という作業はもっとも難しく、日本と欧米の文化の違いを鮮明に反映する。
  日本人は中学から英語を始める。大学卒業までに10年間。それから大学院へ進む人も、海外へ留学する人もいる。学習年月の長さと経験からみれば、(自分は……)という自信も、あるいは当然なのかもしれない。
  しかし、その自信のある人たちの書く欧文ペーパーが、欧米人だちからは、「何が書かれているのか、よくわからない」とみなされていることを御存知だろうか?
 
 これは、学生の書くペーパーだけのことではない。学者の論文、官公庁や会社の欧文報告書などの文書も例外ではない。

  まれには秀れたものもあるのだろうが、書いた当人の意図通りにはとられないことが多い。

  その゛当人″とは、留学経験もある人かもしれないが、「自然型」の日本語と違い、「論理的構成型」の欧米語で書くことの本当の怖さを知っているのだろうか?

 「外国人に眼を通してもらったから大丈夫」

 と考えていたとしても、その゛外国人″自身に、きちんとしたペーパーを書く能力があるのだろうか?

 もしあったとしても、もってこられた作品がどうにもならないものだったという可能性もある。本気で直すなら、最初から全部構成し直し、全く新しいものを書かなければならない。そこまでするのは大変だから、文法的間違いをチョッチョッと直し、お茶を濁しておいたのかもしれない。

 つまり、英単語を文法的に正しく並べただけでは、英文ではない。五つの文章を並べたとして、①から②へ、②から③へと、文章どうしの連結に論理性がなければ、英語としては、ますますわけのわからないものになってしまう。

 この矛盾がみられるのは、書くという作業の中だけではない。

 議論の中でも、その議論がしっかりとした論理的構成にのっとらなければ、欧米人からみると、

 「彼ら日本人の言うことは、わけがわからない」となってしまう。

 日米摩擦の根底には、お互いの論理がかみ合わないところからくる文化摩擦がある。

 日本人が英語ペーパーを書くにあたって、まず自分自身の「型」なり「論理」、そして次に相手側のそれを知り、ではそれをどう応用するかを具体的に示すことが求められている。


『英語論文の書き方』 バネッサ・ハーディ

ビジネス・リポートに論理的構成は必要か

Q-ビジネス・リポートのような場合、論理的構成が必要なのですか?

A-そうです。ビジネス・リポートの構成を見ると、それが今までにのべてきた英語ペーパーの書き方に似ていることがおわかりになるでしょう。

 まず、ビジネス・リポートの構成をみてみましょう。

Title Page
Table of Contents
Summary
Terms of Reference
(The Problem, Scope and Purpose)
Findings
Conclusions
Recommendations
Appendix
Bibliography

タイトルの次に目次、そして要約。 “The terms of reference”は英国式、“the problem, scope and purpose”はアメリカ式ですが、なぜこれが書かれるのか、誰のために、その見通し、範囲などを示すもので、リポートのイントロダクションです。これは、他の種類のペーパーがテーマを紹介しそれを定義する゛イントロダクション″に相当します。 “Findings"は、調査結果をのべます。

 たとえばある場所に店を開くなら、その地区に他の同じような店があるか、どのような住民が住んでいるのかなどの細部を調べ、その結果を示すのです。他の種類のペーパーが゛メイン・ボディ″の部分で、違う角度からテーマを検討するのと同じことです。

 そして、ペーパーが自己の論点にもとづいて結論をもってきたように、ビジネス・ジポートも、“Findings”にもとづいた結論を、“Conclusions”へもってきます。そして次に、この結論にもとづいて、“Recommen-dations”をします。こうしたら、ああしたらという提案です。 もし調査が充分で、読者が検討すべき事実を充分に示していないのなら、そこで提案することは無意味になります。

 このように、ビジネス・リポートも医学論文の場合と同じです。読み手に、何について書くのかを紹介し、書き手の論点を示す。読み手が判断を下すための充分なインフォメーションを提出したら、書き手の結論を示す。

 調査結果を示す前に提案をしてはなりません。なぜそれらの提案を受け入れるべきかを充分に説得しないで、提案を示したりすると、読み手を怒らせることになります。それは、ちょうど他のペーパーにおいても、主張だけをしてはいけないのに似ています。論点を事実によってサポートし、証明しなければ、その主張は意味がないのと同じです。

 ビジネス・リポートはちょっと違っているようにみえるかもしれませんが、標題のつけ方、グラフィックを多く用いたり、要点を1、2、3と番号をつけて、より簡潔に示すスタイルを用いることなどが特徴です。

 それは、正確であろう、明確であろうとする同じ基本姿勢の反映なのです。表のほうが言葉で表現するよりも適当なら、それを使います。 しかし、ビジネス・リポート書きも、他の種類のペーパーを書くときと同じ段階を踏むわけです。できるだけ多くのインフォメーションを集め、その中から適切なものを選びます。そして次に、そのインフォメーションを、どうしたらもっともよく示せるかを考えるわけです。下書きをし、構成をし直し、いくつかのものを削り、他のものを加えて、書き直しをして仕上げるのです。

「論理的構成がしっかりしている=内容がつまらない」ではない

現代の日本人学生の書いた論文を引用します。

 「原因と結果が明瞭にわかる論文を書きなさい」という指示を、このクラスの学生たちは受けました。何が原因で、その結果どうなったかを書くことは、論理的な構成を要求されるからです。また、「フロー・ダイアグラム」を用いるようにという指示を受けました。

 「フロー・ダイアグラム」(flow diagram)は、AがBを招き、BがCを招き、CがDをと、゛流れ″を示す図式です。こうしてでき上がった論文の中の一つは、

風が吹けば桶屋が儲かる」をテーマにしています。なるほど、日本人にとって、これほど原因と結果が明瞭に、しかもあらぬ方向へ走る面白さの出たことわざもないでしょう。

 これは御存知のように、風が吹くと砂ぽこりが立つ。すると盲人がふえ、三味線をひくのだが、それに張る猫の皮が必要。そうすれば猫が減り、そのために鼠が増え、桶をかじるので、桶屋が忙しくなるというものです。英語で「フロー・ダイアグラム式」にこの関係を示すと、次のようになります。

 wind→dust→blind people→shamisen players→cats killed→rats multiply→rats gnaw at barrels→coopers prosper

次に、日本人学生の書いたペーパーをのせます。

When it bIows, coopers do good business。

      by Masako Nakamura
 An old Japanese saying holds that when it blows, coopers do good business. It may sound far-fetched, but the logic is thus. When it blows hard, dust and dirt are blown up and get into people's eyes. This can lead to loss of sight in many, who thereafter have to make their living as begging minstrels playing the shamisen, a traditional Japanese musical instrument with three strings. As the demand for the instrument soars, many cats are kⅢed for their skin to cover the shamisen's resonant body. The subsequent death of cats results in a sudden increase in the rodent population. When the rats set to gnawing at barrels and casks, coopers are kept busy answering orders and amassing money。

 Thanks to the advance in medicine and to the great regret of coopers, however, this happy chain of events has long been balked. The wind may blow as hard as ever, but with ophthalmologists preventing people from becoming blind, minstrelsy going out of fashion, cats fed on luxurious cat food and rats all but exterminated from homes, one is unlikely to see a cooper in one's neighborhood. An expression still survives: “This is logic of the when-it-blows-coopers-do-good- business type.”Yet with its realistic impact gone, the saying itself may before long be gone with the wind.

 ここでも、論理的構成はしっかりしています。AがBに、BがCに、CがDにと、原因と結果は明瞭。古い諺を論理的に示しています。 ところが、それから生まれ出るものは何とも奇妙で途方もない。あらぬ方向へ行ってしまうという印象です。この二つの間の矛盾から、おかしさが生まれてくるわけです。

 ですから、論理的構成がしっかりしているからといって、いつもドライで理屈っぽいとは限りません。 しっかりしていることが、逆に別の雰囲気なり要素なりを浮き立たせることにもなるのです。

英文の学術論文に“遊び”を入れることはできないか

Q-プランを立てること、論理的構成が必要なのもわかります。でも、その通りに書くと、あまりにも理屈っぽく、ドライな感じになってしまいます。 もう少しゆとりというか、遊びの要素を入れることぱできないものでしょうか?

A-日本式の「自然型」に慣れた人にとっては、英語式論文の書き方は、そのように感じられるかもしれません。論理的構成を大切にするとい、う゛形″に中心があるのですから。

 でも、もっと英語で書かれたものを読み、また自分でも書くうちに、アイディアがどのようにアレンジされているのかわかるようになるでしょう。つまり、「論理的構成」とは、゛骨格″にすぎないのです。

 人間の体を見るときには、内部の骨組みを見ているわけではありません。それは書くことに対して基本的な形を与えはしますが、ちょうど人間の骨組みが外からは見えないように、見えるものではありません。

 あまりにも構造のはっきりしすぎる論文は、骨がゴッゴツしすぎていて、感銘を与えるものではありません。゛骨組み″には、゛筋肉″がつかなければならない。その筋肉とは、アイディアのそれであり、輝きであり、個性的なスタイノレです。そこには当然、ゆとりなり遊びなりの入る余地があります。

 ゛遊び″のやり方はいろいろあります。たとえば英国の諷刺作家ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift, 1667-1745)の諷刺エッセイ、A Modest Proposalから引用しましよう。貧しい人々の人口が増え、社会問題になっている。そのことについて、スウィフトは次のように言っています。

 It is a melancholy object to those who walk through this great town or travel in the country, when they see the streets, the roads, and cabin doors, crowded with beggars of the female-sex, followed by three, four, or six children, all in rags and importuning every passenger for an alms. These mothers, instead of being able to work for their honest livelihood, are forced to employ all their time in strolling to beg sustenance for their helpless infants, who, as they grow up, either turn
thieves for want of work, or leave their dear native country to fight for the Pretender in Spain, or sell themselves to the Barbadoes.

 この問題がどれだけの規模のものかを論じ、他の人々が提案する解決法を並べたあとで、それらを否定し、スウィフトは彼自身の解決法を示します。

 l do therefore humbly offer it to' public consideration that of the hundred and twenty thousand children, already computed, twenty thousand may be reserved for breed…[and]that the remaining one hundred thousand may at a year 0ld be offered in sale to the persons of quality and fortune throughout the kingdom…A child will make two dishes at an entertainment for friends; and when the family dines alone, the fore or hind quarter will make a reasonable dish, and seasoned with a little pepper or salt will be very good boiled on the fourth day, especially in winter.

 貧しい母親たちは乞食か盗人を育てるだけ。食用にしてはどうか、というのがスウィフト自身の提案なのです!

 この食人-キャニバリズムのすすめ、もしそれだけをいきなり提案したら、歯牙にもかけられないし、諷刺にも何にもなりません。しかし、スウィフトのは、ここには一部を引用しただけですが、「論理的構成」がしっかりしているのです。まず問題、すなわちテーマを示す。さまざまな人による種々の提案。それらへの反論。彼自身の結論と、構成がしっかりしているため、この論点と論理の発展は確かなものであるという印象を与えます。ゆえに理にかない、説得力があるのです。しかも、トーンが“l do therefore humbly offer it.”のように穏やかです。“You should do that.” とは言っていない。しかも数字などのディテールもあげているので、論点がしっかりしているようにみえる。この゛ディテール″の中には、子供を料理するレセピまで含まれているのですが!

 さて、議論のすすめ方は論理的。それゆえに、彼のとんでもない結論-子供を食べてしまうという諷刺が、より力強いものになるのです。説得力のある議論の論理的すすめ方と、途方もない結論。この二つがお互いに戦っている。その戦いの合い間から、または矛盾から、スウィフトの諷刺のぴりっとした味が生まれてくるのです。

効果的な英語ペーパーを書く方法:プリライティングでアイディアを広げる

Q―何について書くのかを初めに示さなければならないということですが、メイン・ポイントを先に出してしまったのでは、それからどうしたらよいのヵ・・・…・どう私のアイディアを発展させていったらよいのでしょう?

A―日本人の書き方と欧米人のそれの間の大きな違いの一つは、日本人は種々の事柄、例を集めて、結論へもっていこうとすること。英語ではポイントを示して、それを証明するために事例をのべるということです。 しかし、そのことは、英語ペーパーは先にもっとも重要なポイントをいくつかあげ、そのあと発展はさせないで放り出すという意味ではありません。

 学生Aのペーパーを思い返してみましよう。

 「女性の生活は、考えられているほどには変わっていない」というメイン・ポイントが、イントロダクションで紹介されました。そして次に続くペーパーの主要部分は、どういうふうにこのことが正しいかを証明する。そして結論は、次に何が起こるだろうかを予見するという意味で未来へつながるというように、全体としてみれば、はっきりとしたアイディアの展開がみられます。 どちらにも発展はあるのですが、その発展のさせ方が異なるのです。そして、英語でペーパーを書くならば、英語式発展のさせ方に慣れなくてはいけないということなのです。

 ただ、ペーパーを分析することと、実際に書くこととは違います。日本語と英語ペーパーの構造的違いの中でも、この違いはおそらくもっとも困難なものでしょう。観念的にはわかったとしても、実行するまでには時間がかかるかもしれません。と言うのも、これは、自己の主張をどう示し展開させるかという重要なことを、180度変えるという転換を要求されるからなのです。

 ただ、これをしないでは、日本人の書くものは、いつになっても゛雲″に終わってしまいます。欧米人の思考過程にスムーズにのらないのです。

 ゛時間″をちぢめるためのよい方法とは、プリライティングをたくさんすることです。できるだけ広く、アイディアを広げる。一つの筋道をつけることだけで満足してはいけません。多くの違った例を考えること。その中から考え、選択するための時間をとること。効果的な英語ペーパーを書くためには、どう論点を発展させるのかを、書き出す前に決めなければなりません。それをどう発展させるのかを、時間をかけて練っていくのです。

 また、他人の書いたものもたくさん読んで分析を行い、そのことによって、英語ペーパーの構造に慣れていくというのもよい考えです。それぞれのパラグラフの構造を注意してください。それぞれのトピック・センテンスを選び出してみる。アイディアがどう発展しているか、…・他の人たちがどうしているのかを見ることは、自分が書くときにも助けになります。

論文のアウトラインをつくるのが難しい

Q-アウトラインを作るのが、とても難しいのです。書き出しても、何を自分が言いたいのかわからないし、書き出してみて初めて少しずっわかってきます。でも、実際に書き出す前に、ちゃんとプランを立てろとおっしゃるのでしょう? 私にとっては全く新しいやり方で、困ってしまいます。

A一困らないで下さい。その当惑は、ある意味では当然ですし、進歩のしるしでもあるのです。 しなければならないことが本当にわかったことを示しているからです。でも、実際にどうするのかがわかるまでは、がっかりした気持ちになるというのは当然なのです。

 ペーパーを書くに当たあたっては、何語で書くのであれ、書く内容をみつけなければならないわけですが、それができるのは、゛プランを立てること″によってなのです。それは、あなたのもっているさまざまな考えを論理的に組み立てる助けをします。アイディアに、論理の流れを与えるのです。しかし、プランとは、エッセイではありません。人はそれぞれ違う書き方を身につけていますし、あなたは最少のプランを好むタイプかもしれません。書くからには、何か言いたいことがあるわけで、二つか三つのパラグラフなら、とりあえず書き始め、そして書くうちに整理するというのでもよいでしょう。

 でも、より長い、そし・てとくに論争というか、あなたの意見の正しさを証明するのが主題であるならば、プランなしにはアイディアの整理ができないのです。一つのアイディアからほかへとアイディアは広がってしまい、もとのポイントからずれてしまったりします。つまり、「論理的構成」がしっかりしなくなってくるのです。それから、思うように書き進み、そして書きながら整理をするというやり方のもう一つの欠点は、言葉数が多くなるということです。前にものべたように、英語ペーパーでは簡潔さが評価されるのです。例をあげるにしても
、あなたのポイントをきちんと示す例が初めから浮かぶわけではないでしょう。それが三つめに浮かんだとしても、プランしている段階なら、入れたり出したりが自由にできます。でも、すでに書き出してしまっては、自由になりません。

 プランを立てるということは全く違う書き方を学ばなければならないというわけではありません。 もしどうしても不可能だと思うのなら、書き上げた作品を前に振り返ってみるのです。分析を試みるのです。次のような質問を、自分自身の作品に対して発してみましょう。

 「この作品の区分けを、私はどう行ったのか?」

 「一つ一つのパラグラフは、一つのメイン・アイディアを示しているだろうか?」

 「それぞれのパラグラフで、もっとも重要なセンテンスは?」

 「そのセンテンスは、それが入っているパラグラフのテーマを明らかにしているだろうか?」

 「それぞれのパラグラフのメイン・アイディアを、私はどう展開したか?」

 「そのメイン・アイディアに適切でないインフォメーションが、この中には含まれているだろうか?」

 「私の言いたいポイントを支えるのに、他のインフォメーションをもってくるべきだろうか?」

 「パラグラフとパラグラフは、ちゃんと結びついているだろうか?」

 「新しいポイントにふれるときには、前と関連をもたせつつ、それをしているだろうか?」

 このような質問を発しながら読み返すと、自分自身の作品がより客観的に浮かび上がってくるでしょう。

 書いたらさいご、手を入れないというのでは、進歩しません。書き上げた作品を、゛下書き″とみなせばよいのです。先にあげたような質問を発したことで、あなたは自分の作品の欠点がわかってくるかもしれません。その部分を訂正するのです。

 つまり、こういうことなのです。「プランを立てるのは難しい」というのなら、プランを立てなければよい。思う通りに書いてしまって、その作品をプランにすればよいのです。これらの訂正をするときには、センテンスが文法的に正しいかどうかに、この段階で注意を払う必要はありません。文法的訂正は、最後にすればよいのです。この段階では、アイディアが論理的に並べられているかどうか、作品の「論理的構成」に注意を集中して下さい。

 書き上げた作品を分析することに慣れれば、やがては書き出す前にプランを立てる、そのプランを論理的に構成することもできるようになるはずです。もし、プランを細部まで立てるのが難しいなら、少なくともメイン・アイディアだけは書きとめて下さい。そして、それぞれのパラグラフをどう構成するかを考えるのです。たとえ一つの単語か1センテンスを書きとめるだけでも、最初の段階としてはかまいません。

 アイディアをどう分類していくかについては、プリライティングのやり方を参考にして下さい。アイディアが多く浮かんだら、それらをあれこれと分類したりして、遊ぶのです。たとえその遊びの時間がわずか10分だったとしても、それをするとしないでは、長い眼で見ればかなりな違いを生むはずです。

個人的体験は英語論文に必要か

 個人的体験を含めるべきか否かは、どういう形式のものを書いているかによる。手紙などはほとんどが個人的体験でうめられている。相手がこちらの経験を聞きたがっているのを知っているからである。

 しかし学術論文では、リサーチの結果得た意見を書き手は客観的に表明することが求められるので、個人的体験を持ち出すのは適当ではない。

 この両極端の中間に他の形式はあるわけで、個人的体験を入れるか入れないか、入れるとすればどの程度かは、主題その他にかかっている。書いたものを客観的に眺めてみる

 今までに、ペーパーの゛構成″について、種々の視点から取り上げてきた。

 全体的な構造、パラグラフ、センテンスなどの観点。一つのパラグラフの中でそれぞれのセンテンスをどうリンクさせるか、それぞれのパラグラフを全体のペーパーの中でどうリンクさせるか、全体の構成を埋めていく細部などについてもである。

 これらすべての点が、ペーパーを書くにあたっては重要である。だがもちろん、実際に書くときには、これらの点を別々に独立したものとして意識しているわけではない。書くという作業は複雑なもので、多くのことが同時におこる。全体の構成、それぞれのパラグラフの構成、その中のセンテンスをお互いにリンクさせることや細部も、同時に意識し、行っているのだ。

 だが、もし自分の書くものをよりよくしたいと願うなら、時には、複雑な全体の中からそれぞれの段階を分け、別々に観察することも必要であろう。

 (どの段階に、自分はとくに注意を払うべきなのか?)

 (全体的な構成が、私のペーパーではうまくいっているだろうか?)    

 (それぞれのセンテンスが、うまくリンクしているだろうか?)

 などを問いつつ、である。

 このように、自分の書いた英語ペーパーを段階別に眺め、「論理的構成」を考えることで、作品はよりよいものになるであろう。

描写:書き手が読み手に伝える方法

 描写は、書き手が何かを読み手に示す方法の一つである。

 ゛描写″とは、視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚の五感に訴える言葉なり表現なりを指す。 となると、甲虫の生態から嵐の夜の詩的連想の描写までを含むことになる。どのような描写が用いられるかは、どういう種類の作品に用いられるかによる。

 ただ、基本的な規則は同じである。細かいところが大切ということだ。 というのも、描写する目的は、読み手に何かをはっきりと見たり、聞いたり、味わったり、匂いをかいだり感じたりしてもらうことだからだ。そこで、描写の表現は正確でなければならないことになる。写真をとるにしても、細部がブレていては、よくわからない作品になってしまう。描写の細部がしっかりしていないと、読み手はイメージを描くことができない。

 書き手は何を入れ、何を入れないかの選択をする。時にはディテールをあまり入れないほうがよいかもしれない。それだけに、もしディテールを入れるとしたら、どれを採用するかがなお重要になってくるのである。

正確なイメージをつくり出す工夫

 たとえば、次のようにある部屋を描写したとしよう。

  The room was quite big with several windows.

 “Quite”は、日常会話にしじゅう使われる修飾語である。ペーパーでは、しかし、しまりのない、あいまいな表現である。

 (大きいって、どれぐらい?)

 (書き手が思っていたより大きいという意味なのか?それとも、ふつうの部屋より? または、書き手自身の家の部屋より?)

 ともかく、はっきりしない。

 もしサイズよりも、他の要素のほうが大切ならば、修飾語は使わないほうがいい。また、“several”も、あいまいな表現である。

 もちろん、表現は時と場合による。もし、「I met her several days ago」なら、゛会った″という事実のほうが、゛いつ″よりも大切になってくる。その意味なら、この表現は適当ということになる。

 もし、「l met her five days ago」 にすれば、゛いつ″会ったかのほうに強調点が移る。

 部屋の例では、どういう部屋であるのか描写することによって、読み手にイメージを与えようというので、窓の数を記すことも有効になる。

  The room was big with four tall windows.

 前の例と単語数は同じなのだが、こちらは文章がひきしまり、無駄がない。 しかも、イメージをきちんと伝えている。


『英語論文の書き方』 バネッサ・ハーディ

『MLAハンドブック』:出典を明示することの重要性

権威ある『MLAハンドブック』

 学術誌の注などの形式は、それぞれの学術誌に決められたやり方があるが、一般的なのは、1951年、1970年に出版されたMLA Style Sheetであろう。 MLAは“The Modern Language Association of America” (米国現代語学文学協会)のことである。これに改訂を加えて出版されたのが MLA Herald for Writers of Research Papers: Second Editionで、1984年に出された。これは『MLA新英語論文の手引・第2版』として、原田敬一氏の訳編により、北星堂書店から昭和61年に出版されている。パンクチュエーションから引用の仕方、引証の細目、見出し例から図表の扱い方まで、それぞれの形式が決まっていて、それが具体的に記述されている。

 「『MLAハンドブック』にのっとること。それ以外は受けつけない」と、先生から指定されることが多い。

出典を明らかにすることの意味

 引用や出典明記の方法にはいろいろあるが、大切なことは、どの形式を使ってでも、ともかくも明らかにすることである。 もし出所が不明だと、読み手はそのインフォメーションを受け入れることができない。英語ペーパーの読み手は、誰がそれを言ったのかを知り、そのことも判断の基準にしたいのである。誰が言ったのかが大切でない場合もあるが、大切になる場合もある。たとえば喫煙についてのコメントなら、たばこ会社のフィリップ・モリス社の社員の発言か、医者の発言かではかなり読み手の受け取り方も違ってくる。

 事実を用いるのは、自己の論点を支えるだけでなく、統計などのより権威あるものの力を背景に、自己の論点を補強するためでもある。出典が明らかにされないのでは、補強力も弱まることになってしまう。

 例は、一般的なポイントを説明し、例証するために用いられる。               

 1パラグラフのトピック・センテンスを読み終わった読み手は、メイン・ポイントが何かは理解するだろう。だが、疑問は残るに違いない。学生Aのペーパーで、この点を見直してみよう。

  Nevertheless, it is still difficult for a woman to be absolutely independent.

 というトピック・センテンスがあった。このテーマは誰にでも親しいものであるからこの文を読んだ人は、すぐにうなずくかもしれない。だが、それでも、なぜ学生Aが「難しい」と感じるのか、また「完全な自由」とは何なのかを知りたがるだろう。そして、次に学生Aがあげた女性の出産と育児責任についての゛例″で、、学生Aの意図は明らかになるのである。

 このように例をあげることは、ただ有効であるというだけではなしに、必要なことなのだ。

「Show not tell.」

 ペーパー書きを指導する先生たちがよく囗にする忠告は、

 「Show not tell.」

 である。

 書き手は、ただ「これこれ」と読み手に“tellしてはならない。例を使って、「これはこういうことになる」とshowしなければならないのである。

 たとえば、「日本人には英語ペーパーを書くのは難しい」という主張なり断言だけをしてはならない。これぱtellだけをしたことになる。そうぃう主張をするなら、それを支える論点なり、納得させうる例をあげなければならない。これが“show”をすることである。

学術論文の読み手は新聞のそれとは異なる

 ゛構成″とは、書き手にとっては要となるものである。   

 自己の論点を発展させていくための全体的な構造、つまり、どのような論理的な段階を経てそれを行うかを考えると同時に、自己の論点を細部でどう支えるか、どのような言葉使いが適当なのかも考えなくてはならない。

 このような点で書き手がどういう選択を行うかは、どういう読み手のためにそれを書いているかにかかっている。学術論文の読み手は、タブロイド新聞のそれとは全く違う。読み手が何を期待しているのか、その期待に答えるように゛構造″に注意を払い、言葉使いも変えることになる。

 学術論文と新聞の言葉使いがどのように違うかなどに深入りする余裕はないが、さきほどふれた細部について英語ペーパーの読み手がどのような期待をもつかを、ごく一般的に語ってみよう。


「細部」とは、書き手が自分の意見を支えるために用いるいくつかの事項のことである。この分類の仕方にはいろいろあるが、たとえばジョイ・リード(Joy M. Reid)
はThe Process of Compositionの中で、基本的には四つのものが考えられるとしている。①事実、②例、③描写、④個人的体験である。それぞれに特色があり、役立ち方にも特徴がある。これらをもっと説明してみよう。

①事実

 この事項についてもっとも大切なことは、事実とは正確でなければならず、また、正確であるということが証明されなければならない。

 ゛事実″とは、統計、数字、種々のインフォメーションなどだが、すぐにチェックすることができるものであること。゛事実″を用いたら、それがどこで行われたものか、どこから引用されたかなど、出所、出典を常に明記しなければならない。

 インフォーマルな記事の中だったら、次のように、

  According to an article in the Internationak Herald Tribute、being beaten by a man is the chief cause of injury among American women.
 「『インターナショナル・ヘラノレド・トジビューン』紙の記事によると……」  ヽ

 ぐらいでよい。だが、実際の引用が使われるのなら、もっとくわしくなければならない。

  According to an article by Colman McCarthy in the International Herald Tribune,“the leading cause of m]ury among American women is being beaten at home by a man.”
「『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙にのったコールマン・マツカーシイの記事によると……」として,彼の文章が引用されている。

 もし学術誌のようによりフオーマルなものなら,テキストの中に引用されたものの出典は,脚注なり巻末か章末の注でくわしく明示されなければならない。

 たとえば,
  Colman McCarthy, “From One Judge, at Least, Woman in Danger Get Help,”International Herald Tribune, 12 June, 1992, p.9 のようにである。

論文の章立てについて

わたしたちはよく例文を見て文章を書く。なれない英文を書くときには例文があると大いに助かる。そこで書きたいと思う日本語に対応するような例文をデータベースから見つけだし、それを利用して英文を書くソフトウェアを開発する研究論文を書くことにしたとする。すると、「例文を利用した英文書作成支援システムの開発」というような題目の論文が完成する。

 この論文は本文が、たとえば、次のような節と小節に分れることになろう。

「例文を利用した英文書作成支援システムの開発」
1・けじめに
2・文書作成支援ツール
3・システムの概要
 3・I システムの構成とながれ
 3・2 各部の機能
4・例文の検索方法
 4・1 日本語表現と英語表現の対応
 4・2 キー概念による例文検索
 4・3 類似事例による例文検索
5・英文書の作成過程
 5・I 例文の利用法
 5・2 英文の生成例
6・現状と評価
7・おわりに

 これが論文の骨組みである。読者はこの骨組みをみれば、だいたい論文に何を期待して読めばよいかわかる。著者は、「はじめに」でこの論文の目的を書いたはずである。なぜそんなシステムが必要かも述べているだろう。論文の第2節以下の展開についても触れているかも知れない。

 第2節では文書作成の手助けをしてくれる既存のシステム(たとえば、文章中での表記上の誤りや文法やスタイルの不適切表現を指摘してくれるシステム)に触れているだろう。その
上で、この論文でのシステムがそのようなシステムのどこに位置するか、他のシステムと比べてどんな点で新規性や有用性があるかを述べているのではないかと思われる。

 第3節では、このシステムの全体図を示した後で、たぶん、それがどんな構成要素をもち、そのそれぞれがどんな役目を果たしているかについて書いている。第4節では実際にどのようにして日本語文に対応する英文を検索するかを、第5節では実例を通し、検索された例文を利用して、所望の英文がどのようにつくられていくかを示しているだろう。

 第6節ではシステムはどこまで完成したものとなっているか、実用面での評価、問題点などを論じ、最後に、「おわりに」でこのシステムで達成したことを述べ、今後の課題などに触れているはずである。

 いま、かりにこの論文の章節立てが以下のようなものであったとする。

I・はじめに
2・背景
3・学校英語が使えない理由
 3・I 学校で教える英語
 3・2 辞書の欠点
4・日本人英語の分析
 4・
 4・
5・実験と考察
 5・1 例文の検索
 5・2 例文の利用について
 5・3 英文のつくり方
6・おわりに

 この章(節)立てだと、論文のタイトルとの整合性をなくす。この章立てでは、論文が「システム」に関するものではなく、「日本人の英語の特性」に関するもののように見える。
しかし、「実験と考察」のような部分のあるところをみると、実験を主にした論文とも見受けられる。

 新聞の見出しで、「いじめを苦に小六生徒が自殺」をみれば、本文には、小学校の六年生の生徒がいじめを苦にして自殺をしたことが書いてあることがわかる。「例文を利用した英文書作成支援システムの開発」では、本文の内容はそれほど明確に暗示はされていないが、最初にあげた節立てをみると、このような論文を読もうとする読者には、大体、どんなことが書いてあるかわかるものである。しかし、二番目の節立てだとそれが不明となる。もし、システムの開発をしたなら第5節を中心にすえた節立てによる文章を書くべきである。その点からすると、第3節の「学校英語が使えない理由」は、それ自体がどんなに興味深いものであったとしても、この論文には不要である。

本論部と結論部の内容について

 本論部には成し遂げた仕事の内容が入る。たとえば、ある社会現象をデータを使って分析したとすれば、使用データ、分析方法、分析結果、結果の解釈、その意味することなどを論述する。必要なら、自分の研究成果と他の人の結果との比較もする。

 どの分野でも研究内容の適切性、適時性、独自性、革新性、新規性などが問われる。著者は強調したいことを中心に据えて本論を書く。たとえば、著者の主眼が何かを設計する方法にあるとすれば、その方法を詳しく述べ、自分のものを他の人のものと比べ、方法上の独自性や優位性を論じる。そのとき、おそらく文献を参照しながら他の研究者の貢献についても触れるだろう。何かの実験を報告するような論文では、方法の他にデータについての記述や結果を分析、解釈する必要もある。

 本論部は論文の主要部をなすので、いくつかの章や節に分けて書くのが普通である。

 結論部では総括的なことを述べる。一言でいえば、本論では序論で提起した問題をどう解決したかを書く。結論部ではそのまとめをする。ここには要約や序論部よりも多くの情報を含む。理論や結果の正当性、妥当性、有意性、優位性、他の研究との違い、応用性、今後の課題、研究結果、未解決の問題、技術的な限界などを述べる。結論では結果をレビューするだけでなく解釈もする。自身の仕事の批判も入れる。何か大事か。意義があるか。結果は妥当か。欠点は何か。制限は何か。今後の課題は何かなどを書く。問題によっては提言、提案をする。

 結論部の見出しには、「結論」、「おわりに」、「結語」、「むすび」、ときに「討論」などが使われる。あることについての説明や解説の論文では、「まとめ」を使うこともある。

 学位論文と雑誌論文 短い論文やレポートでは、タイトル(題目)だけを明示し、他には何の見出しも立てることなく、文章全体(序論・本論・結論)を段落の連続のみで書いてし
まうだろう。これに対し、学位論文などはそれぞれの部分を章によっていくつかの部分に分け、章をさらにいくつかの節に分ける。雑誌論文では全体をいくつかの節に分ける。いずれの場合も節をさらに小節に分けることがある。

 ところで学位論文と学術雑誌の論文では何を書くかに多少の違いがある。雑誌論文では狹い範囲の問題を深く掘り下げて書く。一方、学位論文は専門家としての出発点を画寸ものなので、ここでは特定の分野での研究をやっていく能力、分析力や論理力、総括力などを披露する必要がある。したがって、本文のどこかで研究の背景、関連する論文、研究成果など、雑誌論文では深くは触れない点について詳しく書く(多くの場合、そこから独自の研究成果をまとめたものが学術雑誌の論文となる)。

序論部の書き出しについて

 序論部では問題を提起する。ここでは研究の目的や目標、あるいは問題の所在や研究の意義などを述べる。何のために何をしようとしているのかを書く。論文の内容は、新しい理論、原理、技術を発表することか。その応用について述べることか。装置やシステムの開発や改良にあるのか。あるいは、ある社会現象の実証的な分析の方法と分析結果を論ずることか。特定の数学の問題を解くことか。

 序論部では、問題の提起とともに、論文で取り扱う範囲、論文の背景、歴史的概観、関連研究などについても述べる。論文の正当性や序論に続く章(節)の内容の簡単な紹介をすることもある。

 要約と序論部の関係 序論部は要約とは独立のものである。要約では何を目的に何をしたかを書く。序論では、研究や調査の目的、背景などについて読者の注意を喚起する。

 序論部の見出しには、普通、「序論」や「けじめに」のような語句を使う。本論文の序論部は次のような段落で始まっている。
    
 スウェーデンという国がどのような近代的過程を経て出現したのか。この疑問にこたえるために、われわれは近代的なスウェーデンのモデル形態の出現過程をみてゆかなくてはならない。しかしながら、何を基準にしてスウェーデンのモデルの生成過程とみなすのかが問題である。とりわけ、近代的な国家形成の出現するであろうところの分岐点を見定め、そこに新たな解釈を加えるためには、明確な理由付けをしなくてはならない。その分岐点が1930年代であると、我々は仮定する。

 これも的の絞られていない文章である。おそらく著者は次のようなことを表現したかったものと思われる。

(I)今日のスウェーデンの国家制度はどのようにして形成されてきたものなのか。

(2)それには分析の視点によって諸説があるが、近代的な国家形成は1930年代になされたものとみられる。

(3)そのことに着目し、新たな視点をもって国家形成過程を論ずる。

 いずれにしても、この序論部の書き出しには、立派なものを晝こうして力ばかりが入ってしまった感かおる。読者に対し、いいたいこと(内容)を明快に伝えようするところまでは手がまわらなかったようである。

文献リストに入れる情報

 学術書や学位論文では本文の後に付録、参考文献リスト、索引などをつける。付録はない場合もある。索引は学位論文ではつけないのが普通である。ここでは本文の後にくる付録の内容と参考文献の形式について述べておこう。

 ある種の情報は本文には入れずに付録として本や論文に付加する。それを付録にまわすことで、本文を強靭なものにし、目的の達成を効果的に行なう。こうして読者には読みや
すい論文ができる。

 付録に入れる情報 付録にすべき情報には一部の読者だけに必要なもの、細にわたりすぎること、補助的なデータ、追加例、論文の目的に直接に関係しない装置や手続きの説明、計算機プログラムの本体、計算方法、証明手続き、傍証的なことなどがある。たとえば、論文の構造何らかの社会調査をした結果を本にまとめたときは調査に使った生のデータや調査票は付
録に回す。ある計算をする理論的手続きを論文にしたときは、その手続きを体現したプログラムは、かりに紙面が十分にあったとしても、入れるなら付録にする。このプログラムは計算手続きの正当性の主張を補強するために有効で、計算手続きのプログラム化に興味をもっている人や、その手続きによって実際に計算をしてみたい人には大いに役立つ。

 学術書や論文では著者はその専門分野の中で自身の研究を発表する。自分の立場、位置を明らかにし他との違いを明確にするために、あるいは論点の補強をするために、本文中
で他の文献を引用したり参照したりする。

 引用したり、参照したりする文献は雑誌、単行本、新聞、調査報告書などである。ときにはインタビューの情報や専門家からの個人的な情報のこともある。ここでは雑誌と単行本を参照したとき、それを参考文献の部分にどのように記載するかの形式例を述べておく。

 文献リストに入れる情報 文献リストを書くうえで大事なことは、

 ・必要情報を含み統一した書き方をする

ことである。書籍の場合だと、入れるべき情報には次のものがある。

・著者名

・書名

・編者または翻訳者名

・全体の巻数、版、シリーズ名、など

・出版地名

・出版社名

・発行年

・巻数

・ページ

一方、論文・雑誌記事(遂次刊行物)の場合には次のものがある。

・著者名

・論文名

・掲載誌紙名

・発行主体名

・巻、号、年月日

・ページ

 書籍と雑誌論文

 書籍では、少なくとも著者名、本のタイトル、出版社、出版年が必要である。雑誌論文の場合は、著者名、論文タイトル、雑誌名、巻、号、発行年月を書いておく。そうしておかないと、読者に文献を探すことができなかったり、探せても法外な時間をとらせることとなる。

 著者名を除くと順序は必ずしも一定ではない。書名や論文名に使う字体や個別の情報の区切りをするのに使う符号もまちまちである。一般に雑誌論文名は英文の場合、引用符号、和文の場合、鍵括弧(「 」)でくくる。書名は、英文の場合、イタリックにするか下線をつける。和文の場合、書名と雑誌名は、『  』でくくる。学会誌などでは、投稿規定によって文献の書き方を指定し、区切り符号に至るまで、それぞれが独白の書式を要求する。

一般誌では多義語に注意

 一般誌を読む場合、特にジャーナリストが書いている記事は、多義語と比喩に注意してください。

 多義語とは、一つの単語で複数の意味を持つもの。解釈が文脈・分野で変わる単語です。

 比喩には、直喩(as…、like…など)と隠喩(Life is a stage. など)があります。

 専門用語は意味が厳密に規定されており、いかにもむずかしそうに見えるのでうっかりミスは避けられます。

 しかしありふれた当たり前の用語には、十分注意が必要です。多義語は、ごくありふれた単語に多く見られますo

 科学の例ではありませんが、1999年2月22日の読売新聞に「訳語論争」として社民党の日下部氏と高村外相の討論内容がまとめられていますノ日米防衛協力の指針に関する政府訳についての論争です。

 日下部氏は特にlogistic supportについて、政府訳は「後方支援」となっているが「兵站支援」と翻訳するのが正確ではないかとしています。また、operationという何気ない用語に対して「政府訳は、作戦、運用、行動、活動など使い分けが多すぎる」と批判しているそうです。

 それに対する外相の回答は、Fそういった多義語は文脈によって訳し分けをするのが普通である」ということです。

 どちらが正しいかは、判断する人の基本思想にもよりますが、特にoperationの訳については、一般的な解釈からしますと、政府側の意見に賛成せざるを得ません。

 たとえば、次の文章はいかがでしょうか。

 No individual is powerful enough to live alone.

 問題はindividualです。そんなの簡単だと思った人は、注意しましょう。たしかに普通なら「人はひとりで生きていけるほど強くはない」という意味でいいのです。

 ところが、これが樹木についての文献だったらどうでしょうか。生物用語でindividualは「個体」という言い方をします。したがって「一個体だけでは生きられない」と、生物用語で解釈しなければいけません。

 正しい解釈をするには、このように日本語でも正確に考えられる理解力が欠かせないのです。

 多義語を簡単に分類しておきます。

 (1)複数の分野で使われ、それぞれ意味が異なる
 (例、matrix生物では「基質」、数学では「行列」、細菌関係では「母体」)

 (2)1つの単語で複数の意味を持つ
 (例、load 理学・電気で「負荷、荷重、容量など」)

 (3)見かけは簡単で日常語だが、複雑な意味がある
 (例、jerk 生理学では「筋反射」、医学では「攣縮」.日常会話では「おたく」)

 簡単だと思える言葉も、ひとまず疑ってみる必要がありそうです。

 
 いかがですか。簡単な単語でも、分野が違うと意味が変わってしまうことがおわかりかと思います。

 専門書を読む場合、むずかしい単語はそれほど問題ありません。読む時に注意するし、辞書を見れば必ずその意味が出ていて、しかもその意味は限定されているからです。

 ところが多義語はやさしいだけに、専門分野ではそれぞれ別の意味の専門用語として使われていることを、つい忘れてしまうのです。

医療サービスの社会的特徴

   1 連続的対人(対人格)サービス

 医療要求の全体性・個別性・包括性に対応して、医療サービスは、連続的対人サービスという特徴をもちます。ここでいう「対人」は、対人格という意味をふくんでいます。すなわち、医療労働が症状や病気を対象としているのではなく、人格をもつ人間の健康を対象として、その促進・維持・回復・修復を目的としていることに対応したものであります。また、自己判定困難性ともかかわって、医療労働者と対象となる人々との、人格関係をもとにして生み出されるサービスという意味でもあります。

   2 地域的固定性・恒常性

 医療要求の時間的・場所的不定性に対応して、医療サービスは、一定の生活圏において、その場において、つねに提供されるべきであるという特徴をもちます。このことは、広域化や、それを前提とした大型化となじまないことを意味します。とくに日常生活と密接にかかわっている要求の場合、慢性疾患の外来治療やコントロールおよび高齢者の身体機能低下などが典型的にしめすように、比較的小さな日常生活圏において要求をみたすことが強く望まれます。この特徴は、地域保健・医療計画を考える場合にも、プライマリイ・ケア(患者が最初に接する基本的な医療)を重視して全体のシステムを構築することを求めるものです。

   3 公的保障性

 医療要求の非経済性に対応して、また尊厳性にもかかわって、医療サービスは公的保障性という特徴をもちます。支払能力と無関係に医療要求が発生するために、費用は社会的に政府の責任において負担されるべきです。今日では、医療サービスを享受することは、基本的人権の一つであり、国の信任において提供されるのが国際的方向になっています。ただし、供給主体はかならずしも国や自治体でなければならないということではありません。政府が財政的責任をもちつつ、非営利の民間をふくむ多様な供給主体がそれぞれの利点を発揮しあうことが望ましいのです。

   4 医療従事者と国民の信頼関係

 医療要求の自己判定困難性に対応して、医療サービスが適切に提供されるには、患者・国民と医療従事者とのあいだに信頼関係が存在することが必要です。もともと近代市民革命期に提唱された、国民と専門家の関係は、国民が自らの主権に属する生命や健康の主人公であり、ことがらの性質からして専門家に自己の理性の補助ないしは代行を依頼することもあるが、最終的な意志決定は国民自身が理性に照らして自ら行う、というものでした。民主的基盤に立脚した、医療従事者と国民のあいだの信頼関係を形成・発展させることが、保健・医療サービスの社会的特徴から要請されるのです。

   5 人間の尊厳性
 医療要求の尊厳性は、医療サービスが人間に対する尊厳性を基盤にして提供されることを要請します。医療労働に携わるものに対して、高い倫理性が要求されるゆえんです。

医学における技能とは何か

 医学における技能とは、やはり広義の客観的法則の一部には違いありませんし、経験によって得られるという点では、規則とも共通しています。しかし、技能は、個人の経験に負うもので、他者には容易に伝えることができません。

 王貞治選手(元巨人軍)を例にしましょう。彼が世界最多のホームランを打つことができたのは、バットでボールを遠くへ飛ばすという目的に適ったスウィングや力の配分などを、個人的な経験(体験)によって認識していて、しかもこの認識(技能的認識)に、自己の心身を従わせること、つまり意識的に制御することができたからです。

 ここで重要なことは、ボールの角度や回転や速度から、物理学的に認識される、ボールを飛ばすための法則を彼が認識したのではなく、もっぱら自己の体験(試行錯誤)を通して、いわば体で認識したということです。そのために、この技能的認識は、彼個人以外の人に伝えることが困難になります。たとえ、彼が文章にしたり、テープに吹き込んだりしたものに接しても、ホームランを打てるようにはなりません。

 技能的認識は、さし当たりは個人の認識、個別的な認識にとどまりますが、多数の技能的認識が広範にもちよられ、一定の期間をかけて比較検討し、相互に追試をするなかで、より普遍的な一定の訓練を経た人ならだれでもができるような内容になったとき、規則へと発展します。

 医学でいえば、多数の個別的な症例をもちよって、その症例にかんする診断や治療や看護の、全国的な規準を確立するというプロセスが、技能的認識から技術学的認識(規則の認識)への発展に対応するでしょう。もちろん、病因の法則が解明されていない場合の話です。医学は、主として応用科学(技術的科学)です。しかし、基礎医学といわれる分野では、むしろ法則の解明を中心としていることが多く、基礎科学にふくまれる性格をもっています。また、手技の開発も重要な課題です。そこで、表のように、医学は広い内容をもっていますが、中心的には規則の認識を課題としている応用科学であると位置づけられるのです。

 さて、具体的な医療労働を想定してみましょう。広義の科学=認識、医学の知識(看護学等もふくめて医学としておきます)は労働力の側に属します。技能が人間の側に属していることは明白です。これに対して労働手段は、客観的な、人間の外部に対象化されたものです。労働手段は、医療労働を目的にかなった安全で苦痛の少ないものにするにはどうしたらよいのかという、さまざまな認識を客観化したものです。                                       か

 口からは食物を摂取できない病人に対して必要な栄養成分を溶液にして血中に直接に送入したらよい、という知識(大学や研究的機関で獲得された認識であることが多いわけです)を身につけていても、注射器、注射針、溶液、血液に送入するための支持器具(点滴セットということになります)が、つまり労働手段の一定の組み合わせが存在しないと、病人に働きかけられません。くりかえしますが、認識と労働手段は区別しなければなりません。両者が結合して、労働対象への働きかけが可能になります。

医学は応用科学:医学における規則の位置と役割

 医学は、化学や物理学のように、事物の運動法則の解明それ自体を目的としている基礎科学(理論科学)と異なって、医療労働という具体的で有用な労働を、合理的で安全で苦痛の少ないものにするために、蓄積され系統づけられた認識(これはさまざまな法則や規則を反映している)です。つまり医学は医療労働という直接的に対応する実践的目的、現実的目的をもっているのです。この意味で、医学は基本的には応用科学(技術的科学)に属します。農業に対応する農学、工業に対応する工学と同様の応用科学なのです。

 ところで、科学を基礎科学と応用科学に分けましたが、この分類の根拠は、実践的な目的と直接に対応するかどうかだけではありません。むしろ、いっそう根本的には、基礎科学と応用科学が獲得しようとする認識の特徴によって分類されるのです。

 客観的世界(人間の主観から独立して存在している世界)の運動を規定しているものは、実に多種多様な客観的法則です。そして、これらの客観的諸法則を認識し、意識的に適用して、労働を行っていることが人間労働の特徴であることをすでに述べてきました。しかし、この認識には、浅さ深さ、狭さ広さの段階があります。そして、人間の認識の程度、段階をあらわすために、三つに大きく分けています。それを次にしめします。

  認識の段階と科学の分類、医学の位置
客観的法則→
  (広義)
法則(狭義)-科学的認識 -理論科学……
規則
技能
-技術学的認識-技術的科学…
-技能的認識

                                          
 ここでいう狭義の法則とは、諸々の事物や現象や運動の間にみられる本質的で一定した関係をさし づます。これにたいして規則の方は、経験的規則ともいわれ、自然や社会の諸現象のうちにみられる一定の秩序ただしさのことですが、まだ規則の根底にある本質的な関係は認識されていない段階にあるのです。ひらたくいえば、規則の方は、なぜそうなるのかについての首尾一貫した説明はつかないが、多数の人びとによる永年の経験と実践から、こうすればうまくいく、目的が達成できるという認識のことです。

 法則と規則についての例としてよく出されるのが、惑星の運動です。惑星がでたらめな運動をするのではなくて、一定の順序で一定の期間を経て一定の規則的な出没をしめすということは、古代エジプト以来の天体観測によってわかっていました。しかし、この観測された規則の根底にある本質的な法則は、ヶフラー以降の天文学の発展によってやっと認識されるようになったのです。

 惑星の例のように、経験的規則を認識することが法則を認識する前段階にあたる場合が多いのです。そして、人間の日常生活レベルでは、規則にもとづいて実践することで、具体的目的を達成できる場合が多いのです。

 医療・医学の場合もそうです。人間の病気やけがは、大昔からありました。病気についての法則どころか、当の人間の体の構造も知らないで、とにかくいろいろなことをやって、病気に苦しむ人に働きかけてきたのです。人体の構造が基本的に分かったのは一六世紀のことで、レオナルド・ダ・ヴィンチヴェサリウスの仕事がそれです。

 伝染病の多くも世界中に大昔からはびこっていましたが、その本質的な関係、つまり病原菌やウィルスが発見されたのは一九世紀後半の話です。それまでは、どうして病気が発生するのかというもっとも本質的なこともわからないまま、必要に迫られて、さまざまな試みをくり返し、そのなかから、隔離や検疫といった有効な規則を発見したのです。

よい書き手の条件は語彙や文法力以外にある


 ある研究者は、母国語が英語でない2人の学生たちが、英語ペーパーをどう書くのかを観察した。よい書き手とはどういうものかを探るためである。

 学生①-大学1年生であるが、よく書ける。

 学生②-大学院の学生ではあるが、書く能力はあまりない。

 観察者は、2人がペーパーをどう書くかを追った。

 2人はぷつぶつと独り言を言いながら書いていた。観察者は、その独り言を全部集めた。

 そして、その研究者は、以下のような結論に達した。

 学生①のように、書く能力に秀れている場合(学生②より若いのだが、年齢は関係ない)。学生①は、アイディアの量が学生②よりずっと多い。そして、そのアイディアにそって書く内容を変えていく。つまり、一つのアイディアを入れることによって、そのパラグラフの書き直しをしなければならなくなるのなら、それをする。アイディアが書くものを作り出すのだということを理解していて、

 「これを入れて、もう一度やりなおし……」

 と書き直しを嫌がらない。

 それに反し、学生②は、生まれてくるアイディアの量も学生①より少ないし、また、アイディアよりも、すでに自分が書いてしまった文章のほうにこだわる。そちらにしばられてしまうので、新しい発展はないし、訂正もしたがらない。結果としては、学生①が書いたペーパーのほうが、学生②の書いたペーパーよりも秀れたものとなるのである。

 また、ある研究者は、6人の能力の異なる大学生を比較してみた。学生たちがどう一つのエッセイを書くのかを観察し、書き終えてからインタヴューした。そして、で`き上がったエッセイだけでなく、メモ類などもすべて回収した。

 それらを通してこの研究者が発見したことは、よい書き手というのは、まずアイディアに興味があるということだった。 しかも、下手な書き手よりも、訂正をより多くした。だがそれらは綴字や文法の間違いについてではなく、アイディアを書き替えるのであった。それから、よい書き手は、文法や綴字の間違いを直す
“edit"を書く途中でせず、終わってから行った。

 また、さきほどの母国語との関係であるが、これも何人かの研究者によって報告がなされている。

 彼らの結論によると、アイディアを生み出し、並べていくときに母国語を使うのは、外国語でペーパーを書く場合でも゛妨害″にはならない。

 最終的には外国語でペーパーを仕上げるにしても、この段階では母国語を使ったほうが、アイディアの量も多くなるし、考えもスムーズに働く。

 大切なのは、どうぃうアイディアをもつかであり、よい書き手とは、アイディアが豊かに発展させられる人なのである。そして、それらのアイディアをどのように結びつけ構成していくかを考える。そして、書き直しが必要と思えば、気軽にそれをする。

 こう見ていくと、日本人が英語ペーパーを書くときにもっとも気にする点、

「文法的にしっかりしていない」
「綴字に自信がない」
「語彙が少ない」

 などは、決定的なノヽンディキャップではないことがわかるだろう。

 最初から英語で書ける人は英語を使えばよいが、母国語を用いてもよいということだ。
 もちろん英語力自体を向上させることによって、よりよい英語ペーパーが書けるようになることは事実である。だが、その゛英語力″の中には、ふつうに考えられているように語彙や文法力だけではなく、゛英語的考え方で書く″という問題が含まれているのだ。

『英語論文の書き方』 バネッサ・ハーディ

外国語論文のよい書き手は母国語にも秀でている

母国語能力が前提

 多くの方は、これまでにも多くのものを書いてこられたに違いない。小学校の絵日記、作文にはじまって、リポート、小論文、エッセイなど、多くの分野のものを手がけた経験がおありであろう。

 だが、日本で育った日本人ならば、ふつうはその作業を日本語でしてきたのだ。そして、どのようにして小論文なら小論文を書けるようになったのか、あまり意識していない。先生や親、先輩のアドヴァイス、他人の小論文をお手本にしたり真似たり、または書き方についての本を読んだり、自然に書けるようになったと感じているのではないだろうか。

 では、ここで、自分の書き方とはどうぃうものかを、意識的に考えてみよう。

 日本語のペーパーを、自分はどう書いてきたのか?アイディアを発展させるのに、どれくらいの時間を使うのか? どの程度プランするのだろうか? 下書きをするのか? それを見直し、その段階で手を入れるのか? それとも、最後の段階までほうっておいて、まとめてするのか?

 つまり、どういうやり方、パターンを自分はとってきたのだろうか? 改めて意識してみよう。

 ただこれは、あくまでも日本人が日本語で書いた場合の話である。単語がうまく出てこないとか、文法的にどうかなどは、日本語で書くのだったら、あまり気にならない。

 だが、外国語でペーパーを書くというのなら、話は違ってくる。その外国語における語学力がどの程度かが、もっとも重要な問題として浮上するからである。

 そして自分の外国語力がどの程度であるのか、外国語力のあるなしに人はこだわる。 もちろん、それは大切である。

 だが同時に、見逃してならないのは、その人の日本語論文を書く力がどれだけのものかという側面である。

 日本語でものを書く力にも、個人差がある。日本語で相当なペーパーを書けない人間に、英語で相当なペーパーが書けるはずがない。

 読解力も、同じである。国語は苦手という学生が多い。そうぃう学生でも、「でも、英語だけは……」と取り組むのだが、日本語のしっかりした読解力のない人間が、外国語でぃきなり読めるはずがない。

 「母国語はどうか?」

 それが大前提なのである。

 母国語で読む力、書く力があってこそ、外国語でも読み、書けるのである。

 外国語のペーパーを書くには、ある程度まではその外国語力がなければならない。 しかし、母国語を書く能力がすべての基礎になっていること、母国語を用いるのと同じ技術を外国語においても使うのだということを証明している研究は多い。ゆえに、自分が母国語でどうペーパーなどを書いているのかを見直すことは、外国語ペーパー書きにも役立つのである。

『英語論文の書き方』 バネッサ・ハーディ

重要な下書きの推敲

 ゛書く″作業を、私たちはたんなる一つの行動のように扱ったりする。たとえば、「She wrote a letter to her parents and then she went to bed」のように、「彼女は両親に手紙を書いた」を最初の行動、「それから寝た」と第2の行動と、第1と第2を同等に扱っている。

 だが、実際には、手紙などという簡単なものでさえも、゛書く″という作業はかなり複雑な行程を経た、いくつかの行動、作業の集まったものなのである。

 その作業を、いくつかの段階に分類してみると、次のようになる。

①一“generate ideas”②-“plan”③一“draft”④-“revise”⑤-“edit”である。


 それぞれの段階の説明をすると、①の“generate ideas"は、多くのアイディアを思い浮かべ、生み出すことである。この生み出す作業にあたっては、ダイアグラムを使用すると便利なのだが、それについては後述する。

 ②の“plan"は、それらのアイディアを取捨選択し、どうテーマと結びつけていくかのプランを立てること。

 ③の“draft"は、全体の下書きをしてみることである。
                 
 ④の“revise"は、下書きを検討し、推敲することである。

 この④は非常に重要な段階なのだが、日本人学生に英語ペーパー書きを指導する外国人教師の共通した意見を紹介しよう。

 日本人学生が英語ペーパーを提出したとする。外国人教師はそれを読み、とくに「論理的構成」が不充分と感じる。 そこで、

 「l want you to revise it」

 と言いながら、そのペーパーを返すのだが、もう一度提出されたものを見ると、構成のほうはほとんど手を入れられていない。文法的間違いを直したり、パンクチュエーションをチェックしたりしてあるだけだというわけである。

 つまり、“revise"するという作業についての両者の考え方が違っているのである。

 でぱrevise”とは何かというと、プランを念頭に置きながら、下書きを読むことである。下書きを書いているうちに、または書き終わってから、新しいアイディアが生まれてきているかもしれない。 それらを、どう入れていくか?

 (必要なアイディアを、すべて入れただろうか?)

 (新しいアイディアのほうを使って、古いのを捨てるべきか? 古いほうをそのままにして、新しいのを捨てるべきか? 両方とも使うとしたら、どうぃうように?)

 (このパラグラフのトピック・センテンスは、私が表現したいことを本当にのべているのだろうか?)

 (この例は、果たして適当だろうか? 別な例を使ったほうがよいのでは?)

 (このパラグラフのトピック・センテンスとしては、何か見落としたものがあるのではないだろうか?)

 などと考えながら、より根本的な書き直しを“draft”にする、それが“revise”なのである。

 そして最後に、文法や綴字、パンクチュエーションなどのチェックをする。これが⑤の“edit”である。

 「reviseしていらっしゃい」

 と言われた学生が考えるのは、むしろこの⑤の段階のことなのであろう。

書く前の準備:アイディアのメモ

゛書く″とは、どういうことなのか? 私たちの頭の中に浮かんでくるいくつものアイディアをただ書きとめるというだけの作業ではない。すべての中心に、゛考えること" (thinking)がある。この“thinking"という単語が英英辞典でどう定義されているかというと、“using the power of reason" とがusing the mind to form opinions”などと出てくる。

 ただ思ったり、感情的に感じたりするのではなく、判断力、理性を用いて論理的に考えることである。“mind"は狭くとれば“heart"に対する゛頭脳″になるが、今までに蓄えた知識経験のすべてを含む、と広くとれば、゛心″も参加することになる。ともかく、頭脳、理性、知識経験のすべてを用いて、'となろう。

 このプロセスは、アイディアの段階を越えたものである。゛アイディア″というのは、頭に浮かぶ束の間の絵のようなものである。インスピレーションがひらめくように、パッと火花を散らしたりはするが、それが意見なり論点なりに発展するまでには時間がかかる。

 アイディアが次々と頭に浮かんだとしても、そのうちのどれとどれが重要で、どう関係づけるのか、決めなければならない。 しかも、アイディアは論理的順序
に従って頭の中に浮かぶわけではない。一つのアイディアへの連想で2番目が浮かび、前のとは全く関係なしに3番目が浮かんだりする。(私の主題は……)と、自分を引き戻さなくてはならなくなる。

 これは、ある意味で、犬の散歩に似ている。どこへ連れて行こうと決めていたとしても、元気な犬は私たちをあちこちへ引き廻す。決めた道を行くためには、私たちはその度に手綱をぐいと引かなければならない。

 いくつものアイディアが浮かび、その混沌とした状態を少しずつ整理し筋道をつけていく過程は、亅本語で書く場合も、英語で書く場合も、違いはない。

 

 その筋道のつけ方にも、個人差はある。

 一つのやり方は、浮かんできたアイディアなり例文なりのメモをとることである。一語がひらめいたり、論点はこれ、というような一行が浮かんだりするかもしれない。何でもいいから、忘れないうちになぐり書きしておくことである。アイディアにしても、文章にしても、じっとはしていない。逃げていくものをとどめるためには、そのたびに書きとめておくのがよい。こうしながら考え続けているうちには、何かを書くための多くのアイディアがにれで集まった)と感じる段階に達するかもしれない。

 アイディアを整理し筋道をつけていく過程には、日本語と英語の違いはないとのべた。この段階では、メモを取るのは日本語でも英語でもかまわない。

 ともかく多く取ることである。手直しに゛終わり゛はない

 これらのメモを前にして、さてそれをどうするかということになるのだが、そこにも個人差は出てくるだろう。

 これらのメモを選択し、順序だてて並べ、それから考えをまとめて書き出す人もいるかもしれないし、いきなり ゛言葉の海″に網を投げで魚″をつかまえようと、直ちに書き出す人もいるかもしれない。

 少し書くと、読み返してみるだろう。一つの考えを紙に書きつけているうちにも、頭のほうは思考を続け、別なアイディアが浮かび、すでに書いたものをそれに従って変えるかもしれない。

 たとえ一つのペーパーを思い通りに仕上げたとしても、スペルをチェックしたり、表現を変える作業は続くに違いない。考えを続ける限り、手直しには真の意味での゛終わり″はない。゛完了″とは、その意味では仮りのものであって、紙数や時間がなくなったとか、書いたり考えることに疲れたから、などという理由による場合が多い。            。

『英語論文の書き方』 バネッサ・ハーディ

ヒエラルヒー的・ダイアグラムの欠点

 ある欧米人の教師は、日本人学生たちに、「ディベートの能力は必要ですか?」 と質問したという。

「もちろん」という答が何人からか返ってきた。

「なぜ?」

「自分の考えていることをはっきり言えるから」、「コミュニケーションに役立つ」、「議論で負けない」などなど、多くの理由があげられた。

「ただバラバラにあげていないで、それらを分類してごらんなさい」

 すると、学生たちは困ってしまう。分類と言われても、どうしたらよいのかわからないからだ。

 そこで、教師はヒントを与える。

「必要だというのなら、役に立つということでしょう。ディベートの能力がどういうふうに役に立つのか、利点があるのか、まず゛場″を設定して分類してごらんなさい。たとえば、゛日常生活における利点″、゛学生生活における利点゛職場における利点″です」

 というように指導をしていく。

「論理的構成」を実現するためのテクニック

 このような゛分類″が欧米では常識なのだということを根底に、学生Aが行っている図式作りの作業へ戻ろう。

 アイディアのグループ分けにも、個人の好みに合うものと合わないものがある。

 もしサイズを中心に、゛大″から゛小″へと移るやり方でペーパーを組み立てていこうとしているならば、“hierarchical diagram”は役に立つ。

 しかし、これを採用した場合には、構成はかなり厳密なものとなる。

 つまり、この場合には、アイディアのサイズだけにたよって分類しようとするからである。

 サイズに大中小、極小と4種類あるとすると、大は大で並べ、中は中で、小は小、極小は極小でと並べなければならない。 しかも、たての列でみれば、大は中や小であってはならず、大でなければならない。中は中でなければならない。また、横でみれば、同じサイズのものどうしが並んでぃなければならない。関係のないものが入ってきて、列を乱してはならないのである。

 もし、よりゆるやかな構成を望むなら、“cluster diagram'に一集団図式のほうが適切であろう。

 何の集団かというと、アイディアのそれであるが、より自由で、サイズだけでなく、アイディア間の関係もより明瞭になる。

 少しあとにのせる図が、その「夕ラスター・ダイアグラム」である。

日本人は分類作業が苦手:分類の歴史

 ここでちょっとサイズ分類の話に寄り道をしよう。

 さて、アイディアのサイズを決め、大は大、中は中と組み合わせたり、同じものをまとめ、違うものと対比させたりという作業であるが、日本人を教える外国人教師たちの間では、

 「日本人はこの作業が不得意」というのが共通の認識となっている。

 たとえば、多くの人名がずらずらと並べられたとする。

 その場合、欧米人なら、無意識的に、自動的に、分類を始める。

 にれとこれは作家……あの人とこの人は映画関係者、あっちの3人は科学者……)

 という具合である。

 この場合には、゛職業″を分類の規準としているが、゛ある戦争の敵味方″でも、他の規準でもかまわない。規準がはっきりしない場合には、それを探すこと自体が一つの仕事となる。

 規準をはっきりさせようとするのは、それを用いて分類をしようという、分類への強い欲求から生まれているのだ。

 人名だけではない。場所でも物でも概念でも、分類の対象はすべてのものにひろがる。そして、この分類への飽くなき欲求は、これもまたアリストテレスまでさかのぽるのではないだろうか。

 彼は『詩学』の中で叙事詩、悲劇、喜劇などそれぞれの違いをくわしくのべているし、『弁論術』では、言論には議会での弁論、法廷での弁論、儀式での弁論の3種類があるとしている。動物は血液をもつ動物ともたない動物に分かれ、それぞれ・が、あとであげる「トリイ・ダイアグラム」のように細分化していく。

 この章であげる図式とは、現代の学者の発明ではない。アリストテレス以来の西欧における学問の伝統から生まれたものなのである。

 中世における7自由学とは、文法、論理学、修辞学、音楽、算術、天文学幾何学のことであった。そしてそのそれぞれが、枝のように細分化した。これもまた、学問全体をどう分類したかという態度を反映している。

 「日本人には不得意」という印象はどこからでているかというと、欧米人だったら自動的にはじめる゛分類″を、日本人はしないからである。あるがままに、すべてを受け入れてしまう。またはたくさんあるものなり、ことがらなりの共通項と差異に対して敏感ではない。

 それはなぜかというと、西欧の「論理的構成型」に対し、日本のは「自然型」であるからであろう。自然なら、雲と水と人声と家などのすべてがあるノヽ-モニイをもって、またはバラバラに存在したとしても、少しもおかしくはない。印象も一つから次へ、他へと、自由に流れ移ってもかまわないことになる。

 だが、「論理的構成型」の世界では、そうはいかない。

 ここにも、日本人が英語ペーパーを書くときに直面する難しさがあるのだ。

思考の幅を広げるトレーニング

 さて、ここに、1人の学生が「男性と女性」についてブレインストーミングした結果がある。以下、学生Aとして話を進める。

 「ソフィア・ローレン」「女優たち」「女性美についての男性たちの意見」「女性たちの描く男性像」「これらは間違っているか?」 などと、この学生は書きとめている。「偏見」「権力」「いやがらせ」から「戦争」「レイプ」まで出てくる。

 学生Aの5分間の゛結果″を次にかかげよう。読みやすくするために、綴字の間違いは直し、パンクチュエーションを加えた。ただ、実際のブレインストーミングにおいては、こうした作業をこの段階でする必要はない。

 Sophia Loren; actresses; male ideas of female beauty; female ideas of men; are these false? role models; Elizabeth l - a strong woman; how much are women similar to the ideas men have of them? expectations of women, at work, at home; mothers, daughters, wives, secretaries, mistresses; women in relation to ‘men; men stand alone. Equality. Unfairness. Discrimination. Power. Harassment. War. Rape. Politics.

 この゛結果″を見ると、時には単語、または節や文で、いろいろのアイディアが表現されていることがわかる。それぞれのアイディアは関連のあるものもあるが、他と関連なくパッとひらめいたようなものもある。

そして「女優たち」から「戦争」まで、広い範囲にわたっている。

 アイディアのメモを取ることとブレインストーミングの作業はほとんど同じだが、こちらぱ故意に、意識的に考え方の幅を広げる努力をするのだということもすでにふれた。

 選んだテーマに対して一つの道をたどって近づくとすると、それがどのように広い幅をもちうるものかに気づかずに終わってしまうかもしれない。だが、ブレインストーミングによって多くのアイディアを並べ立ててみると、その範囲の広さに改めて気づくであろう。アイディアのサイズ分け

 多くのアイディアが出揃った次の段階は、それらをグループに分けることである。

 ゛結果″を眺めてみると、サイズにばらつきがあることに気づく。゛小さなアイディア″ど大きなアイディア″があるのである。または、アイディアについての小さなサイズと大きなサイズがあるのだ。

 学生Aは、「ソフィア・ローレン」というような、具体的で゛小さな″アイディアから始め、それをより大きい「女優」というグループに分類している。次により大きく、一般的な「女性美についての男性たちの意見」へと移っている。

 ある人々は、このように、具体的なものから一般的なものへ、゛小さい″アイディアから゛大きい″アイデイアヘと移る傾向がある。

 また、他方には、先に一般的で大きな例、たとえば「権力」などを思い浮かべ、それからその内容を分析的に特定する人々もいる。

 どちらか一方にいつも属すわけではなく、ある時は前のやり方を、ある時はあとのやり方を、または両方を混合させて行っていることもある。

『英語論文の書き方』 バネッサ・ハーディ

ブレインストーミングでテーマ領域を限定

 ごこでは仮に、「男性と女性」をテーマに選ぶことにしよう。

 これなら専門的でなく、人々がすでに知識も興味ももっているからである。だが、領域がいかにも広く、漠然としている。1パラグラフなり、一つのエッセイなりにまとめられるよう、絞り込んでいかなければならない。

 第一に、テーマの領域を限定していかなければならない。

 これをするための一つのやり方は、゛ブレインストーミング″(brainstorming)である。つまり、できるだけ多くのアイディアを、できるだけ早く書きなぐるのである。

 実際の゛書く″という作業の中では、私たちは書くと同時に゛編集″もしている。

 (いや、これはダメだ。理由は……)、にれぱよい考えではない)、にの点については自信がない。本当だろうか?)などと、考えながら訂正をしたり、つまり、編集をしているのである。

 だが、ブレインストーミングにあたっては、これをしないこと。゛編集″は、考えの流れを止めるからである。この段階では、できる限り数多くのアイディアがほしいのだ。

 アイディアのメモを取るのがこの作業である。

 ただ、アイディアのメモを取ることと、ここでぃう

ブレインストーミング″は少々違う。

 ゛ブレインストーミング″もメモを取ることなので、その意味での作業は同じなのだが、前者は自然に、たとえば畑に種をまいて野菜を育てるようなものであるのに対し、後者は人工的、温室栽培のようなものであると言えばよいだろうか。

 自然にメモを取るときぱ、時間制限をもうけたり、早くしようとしたりはしないし、また訂正もする。だが、゛ブレインストーミング″では、5分なり10分なりと時間を制限し、強制的にメモをとらせるのである。訂正もせず、できるだけ多くのアイディブを書きとめる。

 “brainstorming"という単語からもわかるように、゛脳″の中を゛ストーム″一嵐が吹きぬけていくように、アイディアを吹きぬけさせるのである。このようにアイディアを書きとめる方法には、次の三つのやり方が考えられる。どのやり方でも、自分に合ったのを選べばよいだろう。

 ①日本語を使う場合、②日本語と英語を混ぜる場合、③英語で考え、直接に英語で書く場合、の三つである。

 日本語で書く場合でも、英語でメモをとるのならなおさら、綴字や文法の心配はしないことである。論理的構造だの、アイディアの質などへの配慮も不要である。ただたくさん書きとめることだけを念頭におくこと。単語がバラバラに頭に浮かぶかもしれない。または文章の一部が切れ切れに、またはちゃんとしたセンテンスかもしれない。

 何でもかまわないから、ただ書きなぐるのである。

 頭が働かなくなったら、

 (さっき考えていたことは、えーつと……)

 と、ちょっと前に頭にあったアイディアへ戻るとよい。そうすれば、そこからまた動き出すかもしれない。

 ともかくも、試してみることだ。エンピツと紙を前にして、「男性と女性」について、できるだけ多くのことを、できるだけ急いで書いてみる。

 制限時間は、たとえば5分。

論文ではまず、何を書くか(テーマ)を決める

 ある主題が与えられ、それについてペーパーを書くとして、もし書き手が何のアイディアもその主題については思いつかないからといって、注射器でパッとアイディアを注射するというわけにはいかない。せいぜい、「この点に注目しなさい」、「このようなアプローチぱ?」などと教えるくらいのことであるが、教えることが必ずしも考えることにつながるわけではない。

 だが、もし自分白身でぃくつかのアイディアを思いつき、それについて考えることをする意志のある人がいたとしたら、その考えを発展、整理するために、いくつかのやり方をおすすめしたい。

 これらの方法は、英語でぱtechniques”と表現してもよいのだが、締切りのある場合にはことに有効と言える

 現代の人々は忙しい。もし理想郷があるのならば、そこでの人々は何かを書く前には十分に時間をかけて考え、心の中に泉が湧き出たときにのみ筆をとるに違いない。ところが、現実の生活では、宿題の小論文を期日までに仕上げなければならなかったり、会議で報告するためのリポートを就寝前に終わらせなければならなかったりする。それが全体像でないことがわかっていても、書けるものを書き留めなければならないわけだ。

 もっとも、全体像などというものが一つのペーパーで描けるものではないし、1冊の本でも無理である。たとえば中近東について書くとして、その中でどうぃう点を扱いたいのか。モーツアノレトの音楽のどうぃう側面を? 男性と女性の何を?

 焦点をあてるべき、ある特定の主題なり側面なりを選ぶことが必要である。

 この゛選択″が、非常に重要になってくる。何について書くかを決めるに当たってもっとも大切なのは、「その主題についてどう感じるか」であろう。政治に興味をもっていないのなら、政治をテーマにしたペーパーは書かないほうがいい。興味は、知識とも関連してくる。より知識のあることに興味も深まるのは自然である。

 だが、現実はそうはいかない。理想郷では、人々は知識と興味があることについてのみ書くのかもしれないが、現実には選択はままならぬことが多い。リポート、エッセイ、医学論文にしろ、書きたくもないことを書かざるをえない場合が多い。その場合には、書き手の熱意を盛り上げ、アイディアを生み出させるために、より多くの準備が必要になってくるであろう。テーマが決まったら、それについて本を読み、リサーチをし、全体の下書きをする以前に、メモを取ったりなどの゛プリライティング″をすることである。


『英語論文の書き方』 バネッサ・ハーディ

英語文献をまとめるテクニック

英語文献を読む目的にはいろいろありますが、いずれにせよ、せっかく読んだ内容はぜひ整理して、資料として残したり、きちんと頭の中に入れておきたいものです。

 そのためには、簡単なレポートにまとめるのもひとつの手段です。読んだ内容をどの程度理解したか確認できるだけでなく、将来、きちんとしたレポートや論文を書くための練習にもなるからです。

 しかし書くことは、読む以上にむずかしいことです。

 「話し言葉」と「書き言葉」に関する研究をしたアメリカのオッグ博士は、その著書「Orality and, Literacy」の中で、書き言葉によるコミュニケーションは「特に意識的
におこなうもの」だと言っています。

 たしかに日常使っている話し言葉は、あまり考えることなく口をついて出てきます。スピーチなどを頼まれ、普段と違った話し方をさせられるような時になって、初めて、j普段、話し言葉をいかに無意識に使っていたのかに気づきます。

 書き言葉ではこうはいきません。書くという行為は、まず、自分が書くという行為を意識しなければなりません。「さあ書くぞ」と決心しなければ、なかなか書けませんね。これがオッグ博士の言うところの「意識的におこなう」ことなのです。

 そのうえ、作家になるほどの文才があっても、また日記を欠かさずつけているほど書くことが好きな人でも、科学レポートがすらすら書けるわけではありません。レポートを書くというのは、話かまったく違ってきます。

 「とりあえず書いてみよう」とろくに内容を検討せずに書き始めてしまう人がいます。 しかし、頭に浮かんだことを書き連ねていく日記だったらこれでも構いませんが、理系のレポート、論文はそういうわけにはいかないのです。

 科学レポートを書くということは、小説や日記とは明らかに違う、次のような特徴があります。

 ① 書く内容について、よく知らなければ書けない。

 ② 具体的に自分の意見を構築し、それを証明しなけれぱならない。

 ③ 一定の「論理構成」と「文章スタイル」にしたがっ
   て書かなければならない。

 内容をよく知るためには、ある程度の調査や実験が必要です。その結果に基づいて、自分の意見を決める。そしてそれを論文やレポートで表現するには、決められたスタイルで書かなければならないのです。

 そこでこの章では、科学論文やレポートを書くに当たって気をつけなければならないことを、いくつかお話ししようと思います。

「構成」と「内容」は一心同体

 最初に、いちばん大切なことを3つお話ししておきましょう。

 まず「論文の構成と内容は一心同体」だということです。

 論文の構成は、論理展開そのものを表しています。すなわち、構成のまとめがそのまま内容の検討につながる、あるいは逆に、内容を検討する筋道が同時に構成を考えることになります。

 一方、読み手の側から見れば、構成を追えば、そのままその論文の論理展開を追っていくことにつながります。それだけ、論文の主張する論理の正当性の評価が容易になるわけです。

日本語で考える

 もうひとつは、「英語のレポートだからと言って、論理展開や構成を英語で考える必要はない」ことです。日本語で構わないのです。そもそも英語で考えられないのに一生懸命頭をひねっていても、先に進まないでしょう。

 とりあえず日本語で考え始める。そして考えがある程度まとまってきたら、英語でアウトプットしてみる。まずそれから始めてみましょう。

 このような考える(まとめる)訓練を繰り返しやって、しかも英語に慣れてくると、不思議なことに、自然に英語ですらすら出てくるようになるものです。少し時間はかかりますが、それまで地道に歩んでいってください。

 もちろん、英語で考えられる人は、すぐ英語で始めてもらって構いません。

 ただし、英語ができると過信している人は要注意。よほど英語に達者でない限り、そもそも日本語で考えてもむずかしいことが、英語でやったらやさしいというわけにはいかないのです。

 まずしっかりと日本語で論理展開をまとめることが先決でしょう。

 ただし、日本語、英語のどちらで考えても、最終的なアウトプットは当然、英語になります。したがって、それぞれの英語力に即して、ある段階からは英語で考えることも必要になります。

「自分の考え」を表明する

 3つめは、論文やレポートは「新たな考えを伝えるもの」だということです。新たな考えとは「自分のオリジナルな考え」のことです。

 繰り返しになりますが、大まかな文献調査・分析プロセスを紹介すると、次のようになります。

    過去の文献調査
        ↓
研究されていない部分を探し出す
        ↓
   新たな視点で論ずる

 レポートの種類によっては、現状調査で終わっているような場合もあります。それでも、その現状調査は、何かを伝えたい目的でおこなったはずです。

 そこをどれだけ伝えられるかが、よいレポートになるかどうかの境目になるでしょう。

出典が明示されていないと「盗用」とみなされる

 出典の明示は極めて大切なことで、ここで何度繰り返しても強調し過ぎることはありません。Intertextuality (テキスト相互関連性)とはロシアの文芸評論家バフチンの言葉です。簡単に言えば、自分の考えは、必ず、以前、誰かがどこかで囗にしているということです。

 人間とは、読んだり、聞いたりしているうちに、他人の考えを、まるで自分の考えであるかのように錯覚するものなのです。

 これは、論文やレポートでも同じです。自分のオリジナルな説に見えても、実は多くの参考文献に支えられている
ものですから。

 それだけに論文やレポートでは、出典を一定の書式に則っていちいち明示することが、厳しく義務付けられています。それがないものは「盗用」とみなされ、激しく糾弾さ
れてしまいます。

●出典が明示されていないと「盗用」とみなされる

 この点、日本はまだまだ考えが甘いようですが、もはやそれは許されません。

 何を隠そうこの私も、未熟な学生時代に恥ずかしい経験があります。

 フレッシュマン・コンポジションという英作文の時間に、ある教本から文章を拝借しました。ちょっと気にはなったのですが「これぐらい……」と思い、バレないだろうと高をくくっていました。

 ところがそれを英語ネイティブの先生の前で読むと、先生の顔色が変わりました。おそらくplagiarism (盗用)とか何とか言っていたのでしょう。

 私には先生が何で怒っているのか察しはついても、何を言っているのかまではわかりません。

 私は頑固に「盗用はしていない」と言い張り、結局、うやむやのまま許してもらいました。

 しかしそれ以後、絶対に「盗用」はしないと心に誓ったのです。

出典は細大もらさず記録しておく

 出典は、第5章で紹介した情報を細大もらさず記載しておきます。

 「細大もらさず」書いておかないと、後で困ることになります。改めて出典を調べるのは至難の業なのです。

 私にも覚えがあります。

 発表された論文を翻訳しているときのことです。ニュージーランドの編集者から参考文献について2ヵ所不備がある」と問い合わせがありました。

 あいにくかなり前に調べていたことで、しかもその時点では専門誌に発表することなどまったく考えていなかったので、資料が手元にありません。何十冊もあるファイルを引っ張り出すは、図書館に行くはで大騒ぎをしました。

 結局、インターネット検索で参考文献の「出版社」「著者名の正しいスペル」をつきとめることができましたが、出典を記録しておくことの大切さ、そしてインターネット検索の便利さを身をもって実感しました。

 最終的なレポートは英語で書きますので、出典の情報、メモなどはすべて英語で記載していってください。この時点でうまくまとめておけば、レポートを書く際、時間の短

まとめるにあたって自分の考えをしっかり持つ

 レポートの書き方を一言でいえば、まず主題を一文にまとめ、それを証拠などで肉付けし、さらに細かく論を展開させることです。

 このような書き方をしていくと、まとまったレポートが仕上がります。

 よくありかちなのが、たくさんの情報を短いレポートに詰めこみすぎるケ-ス。そうではなくて、むしろ少な目の情報を展開させてまとめる方が理想とされています。

 文献調査のレポ、-卜で重視されるのは、幅広い調査と検討、深い内容理解です。それが基になって研究の次のステップが生まれてきます。

 現状を理解しているだけではだめ。それを発展させていかに新たな考え方を発見し、独自の方法で証明していくかです。

 まとめるに当たっては、まず自分の考えをしっかり持たなくてはなりません。あいまいな表現は許されません。

 ところが、自分の立場を表明するのは、簡単なようでいて、実はこれがなかなかむずかしいことです。

 なぜでしょうか。

 これは、日本の教育では「ディベート思考」が養われないことに、その原因がありそうです。

 しかも、事実上英語が科学界の国際語になっていますから、英語でディベートしなければならない、という二重のハンディがあって、日本人(の研究者)は、特に倫理的な問題に関する議論には参加していけないのが実情です。

 しかしこれからの研究者に、日本的謙譲は許されません。 たとえば今までの研究結果で自説に反するものがあった場合は、まっこうから立ち向かう必要があります。

 たとえば、次のような表現があります。

 “With these views we can only agree to disagree."

 「このような観点から、提示された意見にはまったく賛成できない」

 このように、はっきり立場を表明することが先決です。

メルク社が『Liptruzet』をリコール:パッケージに欠陥

 

メルク社の医薬品『Liptruzet』というコレステロール薬がパッケージの欠陥により回収されています。

Liptruzet錠を包んでいるアルミ箔が空気を通し、医薬品の効果を減らす可能性があると、メルク社は話しています。

今回のリコールの対象は、去年5月から発売された4つの用量タイプのすべてです。

Liptruzetは悪玉コレステロール値を低下させるために以下の医薬品と併用します。

・ Atorvastatin:広く使われているコレステロール薬『Lipitor』のジェネリックであり、体内におけるコレステロールの自然生成を抑制する。

・ Zetia (ezetimibe):食物から吸収されたコレステロール量を減らすメルク社の医薬品。

AtorvastatinとZetiaの両方が別々に使用可能であることから、心臓専門医(Cardiologist)は医療に対する今回のリコールの影響はないとしています。

「Liptruzetとの併用が必要と判断した場合、医師は患者に対してAtorvastatinとZetiaの両方を処方することができます。」と、Interventional Cardiovascular Programs とWomen's Hospital Heart and Vascular Centerの最高責任者である医師Deepak Bhattは述べています。

既に購入しているLiptruzetに関しては、患者が医師に相談すれば使用できるとのこと。また、服用をやめる前には医師への相談が必要になります。

今回のリコールの本当のリスクは、患者がそのニュースを聞いてコレステロール薬の服用をやめてしまうことです。

Atorvastatinで補う場合、その手順は比較的簡単であり、さらに低コストで済みます。そのため、今回のリコールに対応するのはそれほど難しいことではありません。問題は、これを機に治療をストップしてしまう患者が出てしまう危険性です。

Liptruzet と Zetia は1錠の価格がそれぞれ$5.50以上ですが、atorvastatinはその4分の1程度です。

メルク社は Liptruzetを可能な限り早く市場に戻すと話しています。

Northera(ドロキシドパ)をFDAの皮膚用薬・眼科用薬諮問委員会が推奨

Chelsea Therapeutics International社は本日、FDAの皮膚用薬・眼科用薬諮問委員会(Cardiovascular and Renal Drugs Advisory Committee )が6対1でNorthera (droxidopa)承認を推奨したと発表しました。同薬は、交感神経に変性がみられる神経学的疾患(primary autonomic failure )、ドーパミンベータヒドロキシラーゼ欠損症(dopamine beta hydroxylase deficiency )、非糖尿病性自律神経障害(non-diabetic autonomic neuropathy)の患者が呈する、神経原性起立性低血圧症(neurogenic orthostatic hypotension)の治療に用いられます。

神経原性起立性低血圧症は日常生活を著しく制限することが多いことから、Chelsea社は同疾患患者の生活を改善させることを目標としています。

神経原性起立性低血圧症について

米国と欧州では300,000人がこの疾患を抱えています。同疾患はパーキンソン病、多系統委縮症(multiple system atrophy )、純粋自律神経機能不全症(pure autonomic failure)などの神経原性障害により生じる慢性疾患です。その症状にはめまい、疲労感、集中力低下、起立時の失神などがあります。これらの症状は日常生活を大きく制限することになります。

Northera(ドロキシドパ)について
 
同薬はChelsea Therapeutics社の主力医薬品候補であり、現在、神経原性起立性低血圧症患者を対象にフェーズⅢ臨床試験が行われています。ドロキシドパは合成カテコールアミン(synthetic catecholamine )で、脱炭酸反応(decarboxylation)経由でノルエピネフリン( norepinephrine )に直接変換され、神経系におけるノルエピネフリン濃度の上昇をもたらします。

Dainippon Sumitomo Pharma Co社が開発したドロキシドパは、パーキンソン病関連の起立時のめまいやすくみ足(frozen gait )、また、シャイ・ドレーガー症候群(Shy-Drager syndrome )および家族性アミロイドポリニューロパチー( Familial Amyloidotic Polyneuropathy)の治療薬として、最初の承認が1989年に日本で取得されています。

英文レポートのまとめ方

レポートの文章構成もほぽそれに準して、主要部分は次のようになっています。

  Introduction→Body→Conclusion

 常にこの流れを意識してまとめてください。

 Introductionの前にはAbstractがつきます。

 Bodyには通常3つのトピックを盛り込みます。

 レポート全体の構成とBodyのトピックがそれぞれ3なのは偶然ではありません。

 英語では「3」が好まれているからです。たとえばスピーチでも、聴衆に訴えたいトピックの数を冒頭で示すテクニックがよく使われます。

 クローン羊についての講演なら、次のような感じでしょうか。

Today, I want you to remember three things: (1)the cloned sheep Dolly, (2) the cloned mouse Cumulina, and (3) the cloning technology.

ちなみに、日本語の小論文(作文)は、「起承転結」の「4」構成をとっていますから、お間違えのないように。

 それぞれをもう少し詳しく見るとこうなります。

 1. Abstract

     レポートの要旨を250~300語程度でまとめる。

 2. Introduction

  2-I The purpose of this paper

     レポートの目的。なぜこのレポートを書いているのか、内容に関しての目的を述べる。

     つまり、「文章かうまくなりたいため」「授業の課題として提出するため」のような目的ではなく、「クローン技術の現状がどうなっているか」といった、内容から見た本来の目的をまとめる。

  2-2 Statement of your position

     結論・立場を初めに述べる。とくに賛否両論ある場合は、どちらの立場をとるかを明確にする。日本語の小論文の書き方と少し違うので、注意したい点です。

 3. Body

  3-I Literature review

     文献を検討する。トピックに関連するおおまかな議論・研究などを紹介する。

     実験調査などの場合、必要であれば、質問(Research question)や仮説(Hypothesis)の形で具体的に検討する内容を提示する。

3-2 Methodology & Findings

   文献を検討した結果、特に指摘すべき点をまとめる。実験の場合はその方法と結果。

3-3 Discussion

   自分の意見が正しいことを証明するため、文献調査、実験の結果を基に詳述する。

4. Conclusion

 4-1 Limitations

   今回の調査での制限事項をまとめる。たとえば実験の範囲や方法など。

4-2 Future research

   今後、検討すべき事項を提示する。

4-3 References

   引用文献をあげる。

 こうしたレポートの構成を心得ていれば、何を調べるべきか、どう考えをまとめるべきか、どのように書くべきかが明確になるはずです。

 【鉄則2】大枠を意識しながら詳細をまとめる

 「大枠」とは、レポートのアウトラインのことです。レポートは必ず、あるアウトラインにそって書かれています。

 レポートを書く前準備として、文献を探し出し、読んで、理解した内容をまとめていきます。

 レポートを書くとは、読んだ情報をまとめることにほとんどの時間を費やすようなものです。特に文献調査ではその傾向が強いと言えます。

 最終的にまとめるとき、あるいは、まだ理解を深めるためにまとめている段階から、絶えずレポートのどの箇所に使えるのかを意識しながらまとめていきます。そうすれば、いざレポートを書く段になって、すぐに使えるまとめになるからです。

●内容ごとにひとまとめにする

 そこで、ひとつの内容ごとに、カードにまとめて書き込んでおくことをお勧めします。カードの大きさは自由ですが、私は15×10cm程度のものを使っていました。

 さらに今では、パソコンに直接入力してしまいます。論文やレポートを書くとき、ここから直接入力できるので、カードより数段有用です。

 「見出し」には内容を書いて、できればレポートのどの箇所で使うかもメモしておくと、アウトプットのときに便利です。

 まとめには2通り考えられます。文章表現をそのまま引用する場合と、自分の言葉でまとめてしまう場合です。

 まとめたら、それについて自分で言いたいことをメモ程度に付け加えておくと、レポートにする際、便利です。

明治初年では造語作業、翻訳に苦心

 多くの抽象的観念は漢字によって表現されている。漢字は、私たちの遠い祖先が中国から輸入した文字であり、日本の片仮名や平仮名も、この漢字を基礎にして作られている。他方、私たちは、明治維新以後、多くの抽象的観念を西洋の文献から学んで来た。即ち、観念そのものぱ明治の初めに西洋から輸入したが、この観念を表現する言葉の方は、古く中国から輸入した漢字を用いて、漢語に翻訳するほかはなかった。西洋の観念と中国の漢字との奇妙な結合を通して、私たちの近代思想は初めて出発したのである。ここに、観念の上の親しみにくさと言葉の上の親しみにくさとが結び合わされることになった。

 明治初年、日本人は民族全休として大きな溝を飛び越えねばならなかった。或いは、その時に大きな溝を作らねばならなかったのだ。抽象的な問題が取扱われる限り、確かに、何処を向いても、よそよそしい漢字ばかりが並んでいる。今までにも、これは幾度となく非難されて来た。柳田国男氏は言う。「たとえば『……的』という言葉があるが、これは『ティック』の妙味を解している人間が使い出した。この言葉など子供が使うと、口の端をひねってやりたい気がする。」こういう日本語の現状について、「近代ではどちらかというと学者の心得違いから……」と柳田国男氏は言っている。また、谷崎潤一郎氏は次のように述べている。「然るに現代の人々は、……『観念』では気に入らないで『概念』と云つてみ、それも気に入らないで『理念』と云ってみると云ふ風に、後からくと新語を作る。学者などが己れの学説を述べる場合にも、ことさら見識を示そうとして、有りふれた成語を使ふことを忌み、独特の字面を工夫する。斯くて新しい漢字の組み合はせが覬つて行はれるのであります。……『社会』を『世の中』、『徴候』を『きざし』、『予覚』を『虫の知らせ』、『尖端』を『切つ先』或は『出。鼻』、『剰余価値』を『差引』或は『さや』、と云ふ風に云ひましたならば、……。」

 日本語の混乱が問題になるたびに、学者の責任が問われる。もとより、学者には負うべき責任があるし、学者の虚栄心に冓づく造語の例も少くないであろう。しかし、日本語の混乱を悲しむ人々の多くは、勅語を初めとして、軍隊、官庁、法律、宗教などの用語については、即ち、難解或いは無意味であっても、それが権力によって支えられているものについては一般に寛大であった。これに対して、学者の用語、最近では労働組合の用語に対しては常に甚だ厳格である。

 西周はヘーブンの心理学を訳述し、役所の第二版序文で翻訳の苦心について語っている。

 ゼロから出発して、一切を作らねばならなかったのであるから、西周の苦心は全く大変なものであったと思う。研究者によると、この間、西周は漢語に頼るのを避けようと試みたこともあるらしい。「普通名詞」を「通へる名」とし、「固有名詞」を「専らにする名」としたこともあるようである。漢語をやめて、大和言葉を使おうという気持は、即ち、谷崎潤一郎氏のように、「社会」を「世の中」とし、「徴候」を「きざし」としようという気持は、西周も持っていたのであろう。しかし、それは終に貫徹することが出来ず、結局は、漢字による造語という道を選ばねばならなかった。それは、柳田国男氏のいわゆる「学者の心得違い」ということも少しはあるであろうが、それ以上に、既に久しく確立していた漢字の支配という巨大な既成事実によるものであったろう。こうした条件の下で、西周は、悪戦苦闘、精一杯のことをやったのである。哲学の方面で西周が行った事業は、明治以来、他の方面でも多くの人々によって行われたのであるが、一旦基礎的観念が漢語に翻訳されてしまうと、それで土台が作られたわけで、その後は、この踏み出された方向へ進打ほかはなくなる。谷崎潤一郎氏の説くように、societyを「社会」と訳さずに、「世の中」と訳すというのは、明治初年の人々も考えたことである。しかし、当時の人々にとっては、Scietyを「世の中」と訳すことだけが仕事ではなかった。socialは「世の中の」でよく、social organizationは「世の中のしくみ」でよいとしても、social lifeを「世の中のくらし」としてよいか、social sciencesを「世の中のもろもろのまなび」としてよいか、……彼等ぱ同時に多くの事柄をいわば体系的に考えねばならなかった。「世の中」という訳語で何処まで押し通せるか否かを広く且つ遠く考えねばならなかった。一つの単語、例えば、societyを孤立させて、それを「世の中」という大和言葉に置き換えてみても。「独占資本」を「ひとりじめのもとで」としてみても、それはそれだけのことである。

 とにかく、私たちは、西周が切り開いた道を歩むことになった。その時、堅くて難かしい学術用語のシステムが始まった。経験の世界と抽象の世界とを距てる大きな溝か生まれた。それは明らかに私たちの不幸である。しかし、同様に明らかなのは、ここに作り出された造語群のお蔭で、曲りなりにも、私たちが西洋の観念を日本の言葉で、漢字は既に日本の言葉で掴むことが出来、使うことが出来るようになったということである。

経験の言葉から抽象の言葉へ:『論文の書き方』清水幾太郎著より

 外国の人間は、幼い時は日本人より不利だが、大きくなると、日本人より有利らであるというところまでは友人も説きはしなかった。しかし、抽象的用語については、西洋の人間の方が私だちより遙かに有利であることは明らかである。というのは、日本人にとって、経験との結びつきを欠いた抽象的用語であるものも、外国人にとっては経朏との結びつきを含んだ抽象的用語であるからである。抽象的用語は抽象的用語に相違ないとしても、日本における抽象的用語というものは、これはまた特別の抽象性を有している。例えば、「現実的」という言葉がある。しかし、こんな言葉は、今日まで、大部分の日本人が一生を通じて一度も口にしなかったであろう。まして、書かなかったであろう。これを使うチャンスがないままで、侈くの日本人は死んで行った。今日は、事情が少し違って来ているらしいが、それでも、幼い子供や田舎の老婆がそう気軽に使える言葉ではない。「現実的」はドイツ語のwirklichを翻訳したもの、少くとも、これに対応するものである。wirklich?というのは、「本当?」というような意味で、ドイツでぱ誰でも平気で頻繁に使う。それを名詞化したWirklichkeitも、そう特別の言葉ではない。しかし、これを訳した、或いは、これに対応する日本語、即ち、「現実」や「現実性」になると、これに手を出すには、誰でも多少の勇気が要るであろう。

 もう一つの例を挙げよう。最近、「疎外」という言葉が流行していて、何でも自分の気に入らないものを「疎外」と名づけるようになっている。これは日本ばかりの現象ではないらしい。アメリカなどでも「疎外」という言葉が濫用されている。しかし、日本でぱ、「現実」という言葉なら使う人でも、「疎外」となると、とても素直な気持では使えないであろう。既に随分流行してはいるものの、こんな言葉は初めてだ、と思う人も多いであろう。元来、これはへーゲルに始まり、フォイエルバハやマルクスによって継承されたもので、ドイツ語のiintiremdungである。このドイツ語は、「本当?」という時のwirklichほどポピュラーではないにしろ、言葉としては、そう特殊なものではないようである。英語ではalienation'フフンス語ではalienationであるが、これらの言葉は、「疎外」という意味に使用される以前から、譲渡とか狂気とかいう意味で使用されて来ている。alienという英語なら、日本の中学生も知っている。

 「現実」や「疎外」という日本語がただ抽象の世界において使われるのに扠し、これに対応する西洋語はただ抽象の世界において使われるばかりでなく、同時に、日常の胚験の世界においても使われている。いや、同時に、と言うべきではなく、初め日常の経験の世界で使われていて、それが後に抽象の世界で使われるようになったと言うべきである。順序が日本とは逆なのである。日本では、最初に抽象の世界の用語として輸入翻訳され、それが後に経験の世界へ持ち込まれ、そこで意味を砕いて使われ、私たちがこれに慣れるに従って、いろいろな事物に広く適用されるようになり、時々濫用されるようになる。「現実」という言葉などは、既にこの普及の過程の中を動いているように見える。右のような事情を考えると、西洋諸国で定義というものに与えられている特別の重要性が自然に理解されて来る。言葉を使うものは、定義を重んずる必要がある、と私は前に説いた。「現実」や「疎外」という日本語に対応する西洋語が抽象の世界で使われる時、その以前から既に経験の世界で使われていたのであるから、経験の世界での意味の或る一部分を削り落したり、他の一部分を拡充したりして、新しく意味を規定し直さなければ、思考の役に立だないであろう。定義とは、古くからの意味を削り落したり、拡充したりすること、それによって意味を厳密に規定し直すことである。経験の世界と抽象の世界との間に連続性があるから、一度、この連続性を断ち切るために定義という面倒な操作が要求されて来るのである。経験の世界に生きて来た言葉は、定義という狭い門を通ることによって、抽象の世界に入ることを許されるのである。

 

 

大学生の用語選択の傾向について:「論文の書き方(清水幾太郎)」

 或る大学の教師をしている若い友人がある。この友人は、専門は社会科学の方面であるが、学生に文章の勉強をさせねばならぬと考えて、一年に何回か、リポートを提出させている。先日、この友人から次のような話を聞いた。リポートは一年生から四年生までの全部が提出するのだが、一、二年生のリポートと三、四年生のリポートとの間には、大変に大きな溝がある。個々の例について見れば、二年生から三年生へ進む時に必ずこの溝を乗り越える、という風に機械的に言い得ないこともあるけれども、全休として見れば、一、二年生というグループと三、四年生というグループとに分れるようである。一、二年生のリポートは、主として学生自身の経験を綿々と或いはダラダラと記述しているものが多い。こちらが学生の生活を前から知っていて、それに特別の関心を寄せているような場合を除くと、一般には甚だ退屈である。しかし、その退屈な文章を読んでいると、経験の或る断面について実に生生した描写に出会うことがある。その他の部分が灰色の背景になって、或る断面だけがそこへ強く且つ鋭く浮かび上っている。もちろん、そうは言っても、生々した描写というのは極めて稀にしか見られず、経験のダラダラした記述が大部分なのである。これと反対に、三、四年生になると、自分の経験の具体的な記述が急速に減ってしまい、その代りに、抽象的用語の使用が目立って殖えて来る。その多くは学術的用語であるが、経験との結びつきが全く欠けた、或いは、結びつきが甚だ曖昧な抽象的用語が盛に使用され始める。むしろ、濫用され始める、と言うべきであろう。抽象的用語を用いる必要がないと思われる個所でも、学生は好んでこれを用いる。当然、こういうリポートはよそよそしい感じがする。読んでみても、何か内容なのか、それがなかなか掴めない。抽象的用語が多くなれば、リポートが、特定の人間の経験から離れて行く。長い間、学生のリポートを読んでいると、自分の経験をダラダラと書いていた学生が。、或る時期に、抽象的用語の充満した文章へ移ってしまうということが判る。学生の数が多いので、どういう気持で、ひとりびとりの学生が一つの世界からもう一つの世界へ飛び移って行くのか、それを調べることは出来ないけれども、こういう凰に飛び移って行くのは、一般には優れた学生の方であって、そうでない学生は、抽象的用語の世界へ入って行くことが出来ず、といって、自分の経験ばかりを書いているわげにも行かず、それきり、文章が書げなくなってしまうようである。

 この友人の話は、私に多くのことを教えてくれる。しかし、この問題を立ち入って考える前に、別の友人から聞いた話を紹介しておこうと思う。別の友人は、子供の文章や子供のための読物を研究している人で、彼の話は次のようなものである。世界中で、文章を書くという点にかけては、日本の子供ほど恵まれた事情にあるものはない。アイウエオ……の五十音を知っていれば、どんなに幼い子供でも文章が書けるからである。「僕の部屋は小さい。」と書こうと思えば、「ボクノヘヤハチイサイ。」と書けばよい。「部屋」は「ヘヤ」で済む。しかし、西洋では、「ヘヤ」の代りに、roomとかNimmerとかchambreとか綴らねばならない。これは、日本の子供が「ヘヤ」と書くのより遙かに困難な仕事である。しかし、子供が大きくなると、そこへ漢字が入り込んで来る。アイウエオだけでなく、漢字も一緒に恍って文章を書くという段になると、日本の子供は急に不幸な事情の下に立たせられる。夥しい漢字をどう使ったらよいのか。雄弁だった子供が俄かに黙り込んでしまう。

 この友人は、西洋では幼い時は不利であったのに反して、長じてからは有利になる、と明瞭に述べてはいないけれども、そういう含みがあるように見える。しかし、日本の子供が幼い時は非常に有利な状況にいるが、やがて、ひどく不利な状況に立だされるというのは、この友人の言うように、漢字のせいであろうか。或いは、漢字のせいだけであろうか。私の考えでは、確かに漢字が問題ではあるけれども、ただ漢字だけが問題ではないと思う。私の意見では、最も重要なのは、日本の抽象的用語が漢字で書かれているという点てある。換言すれば、部屋とか書物とか道路とかいう、具体的事物を指示する漢字が日本人にとって重荷であることもあるが、それよりも、概念とか構造とかいう、抽象的な事柄を指示する漢字が重荷であるということである。即ち、抽象的用語に関する困難が、漢字に関する困難と呼ばれるものの主要部分なのである。この友人の、漢字が現われると書けなくなる、という話は、糯に挙げた友人の、優れた学生だけが経験の世界から抽象の世界へ飛び移ることが出来る、という話と結びついているように思われる。

引用句に関して:「清水幾太郎:論文の書き方」

 引用句は、思想の所有権を明らかにするために用いることが多い。それが誰のものかが広く知られている場合、わざわざ所有権を明らかにするのは、不必要であるし、その原典の頁数まで挙げるに至っては厭味である。マルクス及びエングルスの『共産党宣言』の冒頭の一句、「今日までのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である。」これなどは、もう万人共有のものと見るべきであろう。ところが、所有権が広く知られていないで、黙っていれば、コッソリと自分の所有物に出来るような場合、その本来の所有権を明らかにするのは、少し辛いことかも知れないが、これは明らかにした方が道徳的であろう。

 ところが、所有権が広く知られていないで、黙っていればコッソリと自分の所有物に出来るような場合、その出典を明らかにすることによって、にの辺から、引用句の問題の複雑
な事情が始まる。自分が並々ならぬ勉強をしていることを立証することが出来るものである。その引用句によって、誰も読まない文献を読んでいることや、広く知られている文献だが、それを実に綿密に読んでいることなどが明らかになる。つまり、道徳的であることによって利益を得ることが出来る。こういう事情もあって、卒業論文学位論文などのように、通常、オリジナルな主張よりも、着実な勉強ぶりを立証するために書かれる論文では、どうしても、引用句が非常に殖えてしまう。攻める要素が少くなり、守る要素が侈くなる。これは諸外国でも同じことである。


 諸外国でも同じ、とは言うものの、ドイツの学生がドイツの文献から引用するのと、日本の学生がドイツの文献から引用するのとでは事情が違って来る。ドイツの学生が試みても、勉強をしたことの特別な証拠にならぬような場合でも、日本の学生が試みたら、当然、高い評価を受けるであろう。そのために、或いは、そこを狙って、外国の文献については、日本の方が余計な引用をする結果になるらしい。日本の文献から引用すればよい時も、それを避けて、外国の文献から引用する例が侈い。日本人の著作を用いても、この著作自身が外国の文献からの引用を夥しく含んでいることがあるし、多くの学問では、本店が西洋にあるという事実或いは意識があるで、自然、こういう結果が生まれるのである。

 

 authorityという言葉は、一方、出典や典拠を意味し、他方、権威を意味している。権威と認められている学者や思想家から引用することによって、その権威を自分の文章へ借りて来ることが出来る。本来なら自分で証明しなければならぬ事柄も、権威者の一句を引用することによって、自分を証明の義務から素早く解放してしまう。これは、会話で相手が頷いた途端に証明の義務から解放されてしまうのに似ているが、よほど自明の問題でない限り、こういう方法は避げた方がよいと思う。自明であるなら、引用句は不要であるし、また、これでは、攻めているように見えて、実は少しも攻めていないのである。一つの引用句がなくても、自分で証明する、自分で攻めるという姿勢がなければいけない。そういう真面目な努力の途中で、若し誰かの一句を借りれば、その時は、引用句も鋭く生きるし、自分の叙述も生きる。そもそも、こういう主体的な条件が備わっていなければ、適切な引用は出来ないものである。

 しかし、権威が単に学問的や思想的のものでなく、政治的なものになると、即ち、権威というよりは権力に近づいて来ると、事態は病的になる。ルカーチが「思想的自伝』の中でスターリン主義下の学問について述べているのは、引用の病的なケースである。「問題は、スターリンの精神的支配が鞏固なものになり、個人崇拝に凝固するに従い、マルクス主義研究が一般に『究極的真理』の解釈、適用、普及に堕落して行ったというところにある。支配的な学説によれば、人生の問題にしろ、学問の問題にしろ、一切の問題に対する解答は、マルクス及びエングルスの著作のうちに、なかんずく、スターリンの著作のうちに横だわっているのであった。……論ぜられる問題に応じて、スターリンからの適切な引用句を見つけ出すということになるほかはなかった。『思想とぱ何か。』と甞てドイツの或る同志が言った。『思想とは、引用句の閧の結合のことである。』……」ドイツ語で引用句のことをNitatという。ルカーチは、当時の学問や思想がNitatologieに堕していたと言っている。Nitatologieというのぱ、辞典にも見当らない言葉で、仮に「引用学」とでも訳すべきなのであろう。こういう状況の下では、引用句で身を守るほかはなかったのである。攻める要素を文章の中に探しても無駄だったであろう。

書き始めの爆発は1回しか起こらない

 どんなに短い文章でも、これを書き上げるというのは、いろいろな観念が積み重ねられた揚句の一つの爆発である。この意味でも、文章は一本勝負である。文章は一つの爆発である。だが、一貫した論旨で友人に話すというのも、これまた一つの爆発である。雄弁に且つ情熱をもって話すという形式で一度爆発させてしまった裸一貫で攻めて行こう。問題を、もう一度、文章という形式で爆発させようとしても、それはかなり無理であろう。どういう形式にしろ、爆発は一度しか起り得ないのが普通である。しかし、このことも無条件では言えない。なぜなら、話すという仕方での爆発は一度とは限らないからである。話すのには相手が旻るが、相手は同一人物とは限らない。或る人は、友人Aに向って話すことによって観念の爆発を起した翌日、友人Bに向って話すことによって同じ爆発を起すことが出来る。それだけではなく、一回目より二回目の方が効果的な爆発であることが侈い。相手が変れば、第三回、第四回
……と爆発を繰返えすことも可能である。だが、繰返えせば、繰返えすほど、話し言葉のスタイルが固定し、精神の溝が深く掘られてしまう。そして、それだげに、文章による爆発の可能性が減って来る。

 これと反対に、書き言葉の場合は、以前に書いた文章と同じ内容の文章を書くことは非常に苦痛なものである。単純な清書というのであれば別だが、文章の上では二度目の爆発は不可能と考えた方が早いであろう。私のように、アクチュアルな問題について評論を書くことを一つの仕事にしていると、この点で絶えず苦しまねばならない。例えば、翻訳業界の問題を一つ取り上げても、現実の条件の方はなかなか変化してくれない。従って、私は同じ主張を何度でも繰返えさねばならなくなる。それは、現実の条件が変化しないために必要である。同じ趣旨のことを二回目に書いたり、翻訳したりする場合は全く気乗りがしないものである。 なかなか爆発が起らない。爆発を起り易くさせるような新しい角度を探すのに、おかしいほど骨を折らねばならない。話すという平面では何回かの爆発が起り得るが、書くという平面では本当の爆発は1回しかないと見た方が安全である。

 文章を書こうと思ったら、その問題について話すことは警戒せねばならぬ。しかし、同時に、天才は違うであろう、と考えて来た。天才というのは、いろいろの表現方法を自由に駆使することの出来る人間で、話すことによって立派に表現することも出来るし、書くことによっても立派に表現することが出来る、そればかりでなく、絵によっても表現することが出来る、そういう人間なのであろう。しかし、沢山の表現手段、沢山の爆発方法を持たぬ私などは、書こうとする限り、話すことについては慎重でなければならぬ。このように信じて来た。

序論と結論の粋な書き方

 「とても面白い話があるのだが……」と語り始める人がいる。実際、その話がとびきり面白かった場合にぱ、聞く人は腹を抱えて笑うであろう。そして、「とても面白い話があるのだが……」という前置きは、聞き手の内部に笑う下地を作っておく効果があったことになる。これに反して、その話が相当に面白くはあるが、飛びきり面白いというのでない場合には、聞く人は話す人が想像したほど笑わないであろう。「とても面白い話があるのだが……」という前置きによって聞き手の心に作り出された大きな期待が軣切られたからである。

 前置きの難かしさは、論文における序論というもの(そういう名称がなくてもよい。とにかく、最初の部分のことである。)の運命であるように思われる。論文全休の狙いや要旨を序論
として記述する習慣は一般に行われている。書く方にしても、それで自分の腹が本当に決まるということもあるし、読む方にしても、何処へ連れて行かれるのか、その見当がついて安心するということもある。これはプラスである。ところが、書き始めの段階では、書く方はひどく緊張しているから、ウカウカすると、狙いや要旨をかなり詳細に書いてしまう。それだけに、読む方は詳しい見取図を与えられることにはなるが、同時に、新鮮な気持で内容へ入って行くことが出来なくなる。既に知った話を再び読み直すような気持に陥り易い。内容の鮮度が落ちる。そればかりでなく、肝心の書く方にしても、序論が重たくなると、新鮮な気持で書き進められなくなることがある。探偵小説の第一頁で真犯人の名前が判ってしまったら、読む方も書く方も張り合いがないであろう。問題へ深く踏み込むと対立の関係や程度の差異が浮かび上って来る。ところが、それが掴めたとなると、誰でも嬉しくなって、既に序論の段階から、対立とか何とか大騒ぎしたくなるものである。秘密を洩らしてしまうことになる。これは第一頁で真犯人の名を挙げるのに似ている。私の考えでは、重苦しい序論はやめて、むしろ、スルリと書き始めた方がよい。静かに、しかし、確実に書き始めた方がよい。今は、幾何学の初歩のところな
のだから。

 結論(という名称がなくても、とにかく、最後の部分のことである。)についても、大体、同じような警戒をした方がよいであろう。「まだ、多くの論ずべき問題が残っているが、紙数が尽きたので、残念ながら……」などという結論だけは、何としても、やめるべきである。紙数は初めから明らかなのに、最後になって、恨めしそうな表情で未練を言うのは滑稽である。また、必ず次号に書くというのなら別であろうが、重要らしい問題をチラチラ見せて(そんなに重要なら、それを書けばよかったのだ。)「次の機会に……」などと結ぶのも、厭味たらしい。文章を書くのは一本勝負である。スルリと始めた文章は、プツンと終る方がよい。言い残したことをゴテゴテ並べてみたり、今まで述べて来たことを要約してみたりするのは無用である。ということは、結論の要らぬような本文を書かねばならぬという意味である。序論も結論もなしに、スルリと書き始めて、プツンと書き終ることだ。

 しかし、それでも、是非、序論と結論とが必要だという場合もあるであろう。長い論文では、これは避け難いかも知れぬ。そういう場合は、序論や結論は本論とは別に書いた方がよい。本論が大きな建築物であるとすれば、序論も、小さいながら、別棟の建築物、結論も、これまた小さいながら、別棟の建築物という風に書いた方がよい。換言すれば、序論を書いているうちに本論へ入り、本論を書いているうちに結論へ来るというのでなく、本論を書いてしまった後で、序論及び結論という二個の独立の小建築物を作るべきであろう。

研究論文における接続詞や接続助詞の使用頻度について

 眼に見える世界についても、眼に見えぬ世界についても、日本人は、一つのシーンをパッと掴む能力は相当にあるらしい。勘がよい、とか、直観的だ、とか言われる点てある。けれども、シーンとシーンとを結びつけて、全休の構造をしっかり掴む、いや、しっかり作り上げるという仕事では、私たちぱかなり弱いように思う。「が」が愛用されるのにも、こういう今までの日本人の性格が作用しているのであろう。「が」に比べると、押しつけがましい「ゆえに」や「にも拘らず」などは自然に避けられてしまうのであろう。谷崎潤一郎氏は次のように書いている。「現代の口語文が古典文に比べて品乏しく、優雅な味はひに欠けてゐる重大な理由の一つは、此の『間隙を置く』、『穴を開ける』と云ふことを、当世の人達が敢て為し得ないせゐであります。彼等は文法的の構造や論理の整頓と云ふことに囚ぱれ、叙述を理詰めに運ばうとする結果、センテンスとセンテンスとの間が意味の上でつながらないと承知が出来ない。即ち私が今括弧に入れて補ったように、あ丶云ふ穴を全部填めてしまはないと不安を覚える。ですから、『しかし』とか『けれども』とか『だが』とか『そのために』とか『さうして』とか『にも拘らず』とか『そのために』とか『さう云ふ訳で』とか云ふやうな無駄な穴填めの言葉が多くなり、それだけ重厚味が減殺される。」まるで谷崎潤一郎氏は私を敵として書いているようである。私が一生懸命に説いているのは、「無駄な穴填めの言葉」を大いに使おうという話なのである。実際、谷崎潤一郎氏の言う通り、こういう接続詞や接続助詞をやたらに使うと、文章は次第に読みにくくなる。もちろん、読みにくくしようというのが私の本旨ではない。自分の安定したスタイルが出来上れば、「無駄な穴填めの言葉」をあまり使わずにしっかりした構造の文章が書けるようになることも事実である。しかし、それは入門の段階の問題ではない。それに、接続のための言葉が必要か否かも一概に決めるわけには行かないのである。
 
 例えば、谷崎潤一郎氏のスタイル自身がその典型に見立てられているが、一つの句が多くの言葉を含み、一つの文が多くの句を含む長いコッテリしたスタイルであれば、「無駄な穴
填めの言葉」の必要は自然に減って来る。一つの句や文そのものが、幾つものシーンの連続関係を描くからで、言ってみれば、接続詞や接続助詞が句や文に内蔵されていることになる。しかし、論文の場合、こういうスタイルは非常に読者を疲れさせる。

 短い文を多く積み重ねて行けば、というのは、第一の文と第二の文とが相当の範囲まで重なり合い、第二の文と第三の文ともかなり深く重なり合うという仕方で書いて行けば、この場合も、接続詞や接続助詞の必要は著しく減る。その代り、テンポがひどく落ちて、くどくなる。

 しかし、この問題は、何か書かれるのかで大きく左右される。眼に見えるもの、見覚えのあるもの、換言すれば、読者の経験の方が伸び上って、叙述を補うことが出来るような事柄であれば、侈くの接続詞や接続助詞は「無駄な穴屓めの言葉」ということになろう。「AはピストルをBに向けた。Bはバッタリ倒れた。」こう書いても、まあ、誤読の危険はない。「AはピストルをBに向けて、そして、引金を引いた。それゆえに、弾丸ぱピストルからBへ向って飛んだ。次に、弾丸ぱBの身体に命中した。その結果、Bは……。」と万全を期するまでもない。「そして」も「それゆえに」も「次に」も「その結果」も不要である。Aがピストルを向けるシーンと、Bがバッタリ倒れるシーンと、僅か二枚の写真があれば、何の説明がなくても、人々は一切を納得する。ところが、研究論文においては、右のような意味で隕に見えるものや見覚えのあるものが取扱われることぱ少ない。そういう問題であれば、何もわざわざ研究論文を書く必要はないであろう。前に「麒麟」という美しい言葉と比較して触れた、あのXが一般には問題なのである。Xを言い現わす言葉は使うけれども、この言葉に伝統的に付着している意味や感じ(通常、それが、接続詞や接続助詞抜きで句や文の間を暗黙のうちに結ぶ役割を果すのである)に惹かれずに、むしろ、これを拭い取って使わねばならない。そういう言葉の向う側にチラチラ見えるX、これにも内部的構造がある。それへ立ち入らねばならぬ。というのは、その構成要素の一々に名称が与えられるということだ。しかも、Xがジッと勁かないということはない。それは動く。変化する。もちろん、内部的構造が変化するからである。通常の意味では隕に見えぬもの、見覚えのないもの、その構造や運動を記述するとなれば、読者に察して貰うことは望めない。こうなると、否応なしに、「無駄な穴稘めの言葉」を使わねばならぬ。これだけが頼りであることも稀ではない。こういう言葉を取り上げるのは、料理番から庖丁を取り上げるようなものである。

書き始めは幾何学の世界

何と言っても、書き始めが最大の難関である。いくら文章を書くのに慣れていても、この難関は変らない。全休で三十枚とか五十枚とか書く場合、最初の数枚が自分の気に入るように書げれば、大体、その後はスラスラと運んで行く。そうなると、私を包んでいた不安が急に消える。明るい気分になる。私の書いた言葉がまるで生きもののように、自分で活動して行ってくれる。私は、言葉の自発的展開を妨げないように、その機嫌を損ねないように気をつけていればよい。さきほどまでの自分の緊張が嘘のように思われ、馬鹿らしく見えて来る。

 これは、万事がうまく運んだ場合である。ところが、一旦、こじれると、一枚書いては破り、二枚書いては丸める。何度書き直しても、気に入らない。誰かに見せると、「中分ないではないか。」と言ってくれるが、他人が何と言おうと、自分の気に入らないのである。何処が気に入らないのかと尋ねられても、それが明らかでないのだ。そういう場合は、必ず、自分の書体やインキの色が妙に気にかかって来る。どれも特に難かしい文字ではないのに、私の字は何と下手なのだろう。今日はインキも特に不景気な色をしているではないか。そのうち、一枚目の五行目の「社会」という字さえ綺麗に書ければ、二枚目、三枚目と無事に進めるのだ、というような迷信も生まれて来る。アランは言う。「印刷所のために書かねばならぬ。」確かに、それに違いない。私たちの文字がどんな書体であろうと、インキの色がどうであろうと、印刷術の発明によって、そういう個性的なものはすべて意味を失ってしまった。それだけ、思想が人間の個性を離れて、普遍的且つ抽象的になったわげであるが、そうは言っても、文章の書き始めの段階では、とりわけ、スラスラと行かない時は、印刷所へ行けばゼロになる筈のものが実に気にかかる。一字一字キチンと書け、とか、薄い色のインキや派手な色のインキはやめた方がよい、とか、親切な注意を与えているが、書いては破ることを繰返えしていると、そういう忠告では片づかぬ一種の病的状態に陥ってしまうものである。

 時々、私もこういう病的状態に陥る。実を言うと、何十回も何百回も陥った経験があるので、この頃では、いざ書き始めるという時、「幾何学だぞ。」と自分に言い聞かせることがある。それは、こういう意味である。私か中学校で幾何学を習った時のことを考えると、最初に定義や公理が出て来て、それに定理が続いている。定義にしろ、公理にしろ、言わなくても判っているもののように思われ、それに続く定理も大した代物ではないように思われる。ところが、幾何学の授業があまり進まないうちは、これらの少数の定義、公理、定理だけが資本で、この僅かの資本で問題を解いて行かねばならぬ。私たちの手にある道具は極めて少い。私たちが立っているのは、身動き一つ出来ないような狹い場所である。そこを何とか動き廻らねばならない。全く窮屈である。しかし、ここが肝腎なのだ。この段階を乗り越えると、というのは、多くの定理を学ぶということだが、そうなると、今度は、沢山の定理が私たちの資本になる。問題を解くのに、いろいろの定理を自由に使うことが出来る。私たちは、漸く広い場所へ出て来たのだ。書き始めに当って、「幾何学だぞ。」と私か自分に言い聞かせるのは、定義と公理と少数の定理としか与えられていない窮屈な世界へ入って行くのだ、という覚悟を堅めるための儀式のようなものである。最初の定義や公理は、平凡と言うなら、これほど平凡なものはない。判りきっていることを、もう一度、念を押したようなものである。だが、万が一にも、この段階で少しでも狂いがあったら、私たちは一歩も先へ進むことは出来ない。進んだつもりでいても、足元は直ぐ崩れてしまう。この段階での失敗は致命的と言ってよい。

 一枚書いて破り、二枚書いて丸めているうちに、自分のみじめな書体が気になったり、インキの不景気な色に腹が立ったりして来る。それは神経質になり過ぎているためだ、気のせいだ、とも言えるし、実際、そういうケースも多いとは思うが、しかし、落着いて考えると、書体やインキの問題は定義や公理における小さな、しかし、致命的なものを告げる危険信号であることが多いのである。

 

I love you. のloveの本質

 loveは「愛」であり、「愛する」であると割り切ってよいのだろうか。 日本人にとっての、いや、日本語の「愛」っていったい何を意味するのだろうか。

 ここで「愛」についての哲学的な探求をする意図はない。しかしながら、たいていの日本人にとって、I love you.という表現は、「あなたを愛しています」であり、男から女への、あるいは女から男への愛の告白であるはずである。

 しかしながら、過去20年ほどの間にこのI love you.が欧米では、大きな変化ないしは、大転回をしたように思われるのである。1960年代にflower childrenとも言われたアメリカのヒッピー達は、loveの大切さを自分達の存在をかけて訴えたようでもあった。どうもこのあたりが、震源地となって、loveは単なる男と女だけの愛ではなく、より広い、誰に対しても適用できるようなものになった感がある。

I love you. と独身の女性に言われて……

 私の体験談を話すことにする。筆者は飢餓を終わらせるための国際的なボランティア活動に参加しており、この活動を通じて多くの外国人の友人がいる。そういう友人の一人であるアメリカ人の女性が、私の家に1ヵ月滞在したことがある。ボランティア活動のためにニューヨークからきて、日本で手伝いをしてくれていたのであった。彼女を仮にLisaと呼ぶことにする。

Lisaは私の妻の親友でもある。

 ある時、Lisaの悩みや何かの相談に応じて話をしている時、彼女がI love you. と言ったのである。 loveの普遍的な意味を理解していると思っている私は、その場はさりげなく応じて済ませたものの、だんだん、日本人的な解釈が頭をもたげてきて、気になりだしたのである。私は妻を愛しているし、love affair にぱ興味もなく、明確な人間関係にしておきたいということで、妻にこのことを話し、Lisaとも話し合ったのである。

 その話し合いの中でわかったことは、Lisaの気持ちとしては、男女間の愛情表現のI love you. ではなく、尊敬する友人、人間同士の愛の表現であったということであった。私にとっては一つのculture shockであったわけである。すべてのアメリカ人がLisaのように、I love you. を使うわけではないにしても、loveがより広い意味を持つようになってきていることは確かである。

家族間のI love you.

 日本語の「愛」にも、英語のloveにも家族間の愛という感情が含まれていることは辞書で明らかである。辞書の定義上の共通要素ではあるけれども、違うのは、日本語では家族同士では「私はあなたを愛してます」なんて言わないのに対して、英語の場合は、家族同士でI love you.と言うのは実に日常茶飯事であるということだ。英語では日本語の「行ってまいります」にあたる表現はないのだが、最近では、家族によっては、l love you. とあいさつを交わして家を出る人もいるほどである。

 愛情の言葉による表現ということについて言えば、日本語よりは英語のほうがよりexpressiveであるようだ。私はある日本人のお年寄りとの会話が忘れられない。このおばあちゃんの息子さんは、仕事の関係でアメリカ生活が長く、お孫さん達も英語が第一言語である。彼女はしみじみと、嬉しそうにこう言ったのであ
る。「孫たちは日本語はあまり話せないんですけどね、でもねー、l love you. つて電話で言ってくれるんですよ」。おばあちゃんは本当に嬉しそうであった。

 日本人のコミュニケーションは以心伝心、特に愛情表現について言えば、「愛しています」なんて一生に一度も言うこともなく、聞くこともなく死んでいく人も多いのではあるまいか。文化を比較してどちらがよいというのではなく、外国語を話す時には、こういう人間の本質的な在り方にもかかわらざるをえないということである。

 つまり愛情表現の凵ove you. について言えば。これは、日本語の「あなたを愛してます」とまったく同じだと考えてはまちがいになるということである。

 さらに誤解のないようにつけ加えておくと、l love you.は男女間の愛情表現としてもっとも多く使われているものであると同時に、それよりも広い人間関係でも使われるということである。

like very muchのlove

 loveは「愛してる」というイメージが日本人にはどうも強いようで、男女間の愛以外のことでloveを使うことに抵抗がある。 しかしながら、loveにはto have a strong liking for ~(~をひじょうに好む)という用法もある。音楽が好きで`しようがない人が1 like music.では物足りなくて、I love music.と感情をこめて言えば、「ほんとうに好きなんだ」ということがわかってもらえるのである。

 そう言えば、New York市民の合い言葉は、l love New York. であった。

 like to~も「~するのが好Iき」であるが、「とても好き」という時にはlove to ~がよく使われる。wouldと組み合わせてl would love to~。あるいは短くして、I'd love to~。という形が一般的である。

  A:Would you like to come to our place for dinner tonight ?
  (A:今夜、夕食に家にいらっしゃいませんか)

  B:I'd love to.
   (B:よろこんで)

 また何かを誘われても、是非そうしたいけれども何かの事情でできないなんてことはよくある。

  A:Do you want to play tennis with us this afternoon?
   (A:午後テニスでも一緒にやらないか)

  B:I'd love t0, but I've got a meeting to attend.
   (B:ぜひやりたいけれどミーティングがあってね)

 この会話のように、何かを誘われてことわらなければならない時に、No, I can't. などと直接的にことわるのはあまりさえないコミュニケーションなのである。I'd love to but, ~.という外交的なことわり方を覚えておいて損ではないはずである。

wonderを使った依頼文は難しい

 私は高校生の時はじめてwonderという動詞にお目にかかり、英和辞典を引くと「いぶかしむ、不思議に思う」などと書かれているが、英文を訳すにあたってそういう訳語を使おうとしてもなかなかうまくいかず、いったいどうなってるのだろうと、まさに「不思議に思った」記憶がある。
         
 これは、今考えても妥当な疑問である。というのは、wonderはto express a wish to know (知りたいという気持ちを表現する)ということで、一語では言い切れないような心の状態を表した動詞だからである。

 l wonder what has happened to her.

という英文を、「いぶかしむ」という訳語を生かして、「彼女に何が起こったのかを私はいぶかしむ」とやるわけにはいかないのである。

 英語から日本語へ翻訳しようとする時、「wonder =いぶかしむ」というような公式をあてはめてやるわけであるが、これがいつもうまく行くとは限らない。

wonderはそういう例の一つである。

 「知りたい気持ちを表現する」というwonderの性格を表現すればよいのであるから、前述の英文は、「彼女にいったい何が起きたんだろう」とすればよい。

  l wonder if she is coming to the meeting.は、「彼女は会議にくるのかしら」とすればその気持ちは表現できるわけである。

 これで、私が高校生の時に抱いた疑問は一応一件落着と思われるが、ここで、wonderのあまり知られていない部分に光をあてることにしよう。

やわらかい依頼表現のI wonder if~.

 依頼表現のl wonder if~.については、鮮烈な思い出がある。数年前、アメリカの病院に入院してちょっとした手術をしたことがあった。私の担当医が私を見て至急別な医師に連絡を取る必要が生じた時に、秘書にこう言ったのである。

 l wonder if you could call Dr. Cole and set an
appointment with this patient right away. (コール医師に電話をしてこの患者とのアポイントメントをすぐにとってもらえませんか)

 私はこの言葉を聞いて、ちょっと意外というか、驚きの気持ちを昧わったのであった。その理由は二つあったのではないかと思う。

 一つは、医師が(この場合男性)事務員に対して実にていねいな表現を使っているということ。もう一つは、wonderという動詞を使った依頼表現があることは知っていたが、実際にそうなんだなーという、これは一種の感動であったかもしれない。

 とにかくl wonder if~.は、依頼をやわらかい形でするのに便利な表現である。

  l wonder if you could give me a ride to the station。
  (駅まで車に乗せてってもらえないかしら)

のように、いろいろな状況で使うことができる。この場合、ifのあとの動詞と合わせてかならずcouldがくることに注目。これは、仮定法のcouldで、ていねいな依頼の表現にはcouldがよく使われるのである。

 ところで、頼みごとにもいろいろあって、切り出しにくいような話も中にはある.wonderを使った依頼文はなかなかに手が込んでいる。頼みごとの内容がより重大な時には、過去進行形を使って、l was wondering if~.になることが多いのである。次の二つの例文を見てみよう。

  (1)l wonder if you could mail this letter.
   (この手紙を投函していただけるかしら)

  (2)1 was wondering if you could let me stay for a week.
   (1週間ほど滞在させていただけないかと思っていたのですが)

 内容の深刻度は(2)のほうが強いことは明らかではあるが、これは百パーセントそのように使い分けるということではなく、そういう傾向があるということである。

薬に副作用があるのはあたりまえ

 

 すべての薬には副作用があります。だから、副作用が存在するというそのことだけでは、大きな問題にはならないはずなのです。

 中枢神経に副作用を起こす(かもしれない)薬はタミフルだけではありません。例えば、抗生物質ニューキノロンと呼ばれる種類があります。クラビットとかシプロキサンなんていうのが有名です。日本ではものすごい量のニューキノロン製剤が処方されていますが、これが中枢神経に副作用を起こすことはすでによく知られています。めまいが起きたり、ふらついたり、場合によってはぶるぶる震え出す、けいれんを起こす人もたまにいます。インフルエンザの古典的な薬、アマンタジンも中枢神経に作用してふらつきやけいれんなどを起こすことがあります。アマンタジンには中枢神経に作用するメカニズムがあるからなのです。それを逆手にとってアマンタジンは、いまでは神経の病気の一種であるパーキンソン病の治療に応用されているくらいです。

 タミフルが中枢神経に本当に副作用を起こすかどうかは私にとってあまり重要な問題ではありませんでした。問題は、ここでも「どの程度」のほうなのです。

 中枢神経副作用は(あったとしても)まれであることはわかっていました。たくさん患者さんを集めてきて、タミフルを飲んだ人だちと飲まなかった人たちを分けたら、中枢神経の副作用の頻度は変わりなかったのです。

 言い換えると、両者の差はごくごくわずかで、特に大きな差がある(タミフルによる影響がある)ようには見えなかったのです。10人や20人の患者さんを見ていたくらいでは気がつかないくらいのまれな副作用(あったとすれば)なのです。そんなにしょっちゅう起きるものではないのです。

 「世の中何でも薬害主義者」は「統計学的に差が出ない」なんていう結果には満足しません。「いやいや、あれは統計学的計算の仕方が間違っているんだ」とか、「もっとたくさんのデータを取れば夕ミフルの副作用は目に見えるようになるに決まっている」みたいな主張がされるかもしれません。

 私は思います。まあ、そうかもしれないな、と。でも、そのことはどうでもいいのです。

 なぜなら、たとえあったとしてもそんなに顕著でない副作用であれば、結局は同じことだからです。タミフルは中枢神経に副作用を起こさない薬かもしれません。あるいは、まれに中枢神経に副作用を起こす薬かもしれません。どちらも、臨床家にとってみれば同じことです。私の観点はただ1つ。「で、その副作用を起こすかどうか微妙な薬を目の前の患者さんに出して、果たして患者さんは得をするか?」。つまり患者さんの求めるアウトカムは出せるか?が私の唯一の関心事なのです。ごくわずかな頻度の副作用が現存するか、幻なのかという命題は、臨床家としての私の判断にぶれを起こしません。

感染症は実在しない(構造組成的感染学)』岩田健太郎より

 

MRSA腸炎は実在するか

 


 MRSA腸炎という疾患概念があります。これが実在するかどうかが、専門家の間で大きな議論になっています。

 MRSAというのは黄色ブドウ球菌と呼ばれる細菌の一種です。多剤耐性、すなわち抗生物質が効きにくくなっているのが特徴で、皮膚や血管、いろいろな部分の感染症を起こす、やっかいな存在です。

 それが、下痢をしている患者さんの便から検出されたのでした。それでMRSA腸炎と呼ばれるよ
うになったのです。

 でも、これは悪しき三だ論法の応用編のような気がしなくもありません。腸炎があった、MRSAが見つかった、だからMRSA腸炎の原因だ、と。本当にそれでいいのでしょうか。

 日本以外の国では、多くの(すべてではないにしても)MRSA腸炎は、実はMRSA腸炎ではなく、偽膜性腸炎という異なる病気を見誤ったのではないかと考えられています。偽膜性腸炎というのはディフィシル菌という菌が起こす腸炎です。ディフィシルというのはフランス語のdifficile、英語で言うdifficult、つまり難しいという意味です。何か難しいかというと、検査で見つけることが難しいのです。

 偽膜性腸炎抗生物質を投与されている患者さんにしばしば起こります。腸の中はばい菌だらけで、いろいろなばい菌が住んでいます。そうした人が抗生物質を飲むと、腸の細菌は死んでしまいます。でも、耐性菌は生き残ります。そう、MRSAのような耐性菌が。だから、培養検査をするとMRSAが見つかるわけです。

 で、その人がディフィシル菌による偽膜性腸炎になったとしましょう。便の検査をしても、ディフィシル菌は検査で見つけることが難しい菌でした。だから、患者さんの便を検査しても見つからないことも多かったのです。ディフィシル菌はそこにいるのに、見つからない。MRSAのような抗生物質の効かない耐性菌だけが検査で見つかります。MRSAはとても耐性が強いので、しばしば見つかるのです。それで、「ああ、MRSA抗生物質を飲んでいる患者さんの便からよく見つかるなあ。これが腸炎の原因か。MRSA腸炎と呼ぼう」と医者は認識したのでした。これがMRSA腸炎と呼ばれる現象の大多数の場合の説明であろうと思います。

 厳密に言うと、MRSAそのものが原因で腸炎を起こすことはあるかもしれません。たぶん少数の患者さんの中には「本当の」MRSA腸炎MRSAが原因の腸炎もあるように思います。ただ、便からMRSAを検出するだけでは、病気であると証明はできないのです。私たちは、三だ論法で腸炎の患者さんの便からMRSAが見つかった、だからこれはMRSAによる腸炎である、と即断してはいけないのです。

 微生物が病人から見つかったからといって、その微生物が感染症の原因と決めつけてはいけないというのは昔から言われていた警告でした。

 微生物界の歴史的巨人、ロペルトーコッホは、微生物が病気の原因であると認識するために以下の条件が必要だと言いました。これを現代では「コッホの原則」と呼んでいます。

 

コッホの原則

1 ある一定の病気には一定の微生物が見いだされること。

2 その微生物を分離できること。

3 分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせること。

4 そしてその病巣部から同じ微生物が分離されること。

 MRSA腸炎で言うと、これはコッホの原則のIと2は満たしていますが、3と4は満たしていないのです。ですから、必ずしもMRSA腸炎の原因だと断定したり、MRSA腸炎という病気が存在すると断言したりすることはできないのです。

 同様に、最近、MRSAが体内から見つかった患者さんで腎臓が悪くなる人がいて、MRSA腎炎という病気として認識されています。ただ、これも本当にMRSAが病気を起こしているかどうかははっきりしていません。日本からの報告がやたら多いのですが、日本の三だ論法で、見つかった、だから病気とされている可能性もあります。

 私個人は、MRSA腸炎MRSA腎炎という病気の存在そのものを否定するわけではありませんが、病気を病気と呼ぶには慎重な態度が必要です。少なくとも、微生物が患者さんから見つかったという程度のあやふやな根拠でもってそれを原因と呼ぶのは危険だと思います。

感染症は実在しない(構造組成的感染額)』岩田健太郎より

生活習慣病は実在するか

 

 結核、インフルエンザ、鳥インフルエンザ新型インフルエンザのような感染症を例にとって、感染症とは実在しない現象にすぎない、という話をしてきました。実は、これは感染症だけの話ではありません。すべての病気は「現象」にすぎず、病気は実在しないのです。

 例えば、糖尿病、高コレステロール血症、高血圧なんていう病気があります。いずれも「生活習慣病」と呼ばれる病気です。

 糖尿病にはI型と2型があります。―型は重症型の病気で、膵臓からインスリンというホルモンが作られなくなってしまいます。血糖値が上がり、糖分を含んだ尿が盛んに出るので脱水を起こします。それで口が渇く。これが古典的な糖尿病という「現象」です。従来、糖尿病というのはこのような現象として捉えられていました。

 しかし、現在、糖尿病の大多数の患者さんは、重症型のI型ではなく、比較的軽症の2型の糖尿病を持っています。そして、糖尿病患者さんの大多数は全く痛くもかゆくもない、無症状の人だちなのです。血液検査をしないと糖尿病とは認識されません。昔と違って、糖尿病という病気は「ほとんどの場合は、初期は無症状」ということになりました。現象の捉え直しが起きたわけです。 同じように、ほとんどの高血圧の人や高コレステロール血症(最近は脂質異常なんて呼び方をします。病気の名前はしばしば恣意的に変更されます)の患者さんも、全く症状を持だない人たちです。で、血圧を測ったり、血液検査を行ったりして初めて病人だと認識されるのです。

 糖尿病、高血圧、高コレステロール血症。これらの現象は、昔は成人病と呼ばれていました。これが後に生活習慣病と名前を変えました。生活習慣に原因が多く帰されると考えたため、名前を変えたのでした。でも、これも程度問題で、生活習慣病と呼ばれる病気だからといって、すべて生活習慣にその原因が帰されるわけでもないのです。だいいち、ほとんどの病気は何らかの生活習慣をその遠因に、少なくともその一部に持っています。例えば、梅毒のような性感染症はセックスという生活習慣が原因の一部になっていますが、決して生活習慣病とは呼ばれないのです。専門家の恣意性が、セックスという生活習慣を生活習慣病のカテゴリーに加えさせなかった、ただそれだけの話なのです。

 確かに、糖尿病は恐ろしい側面を持っています。糖尿病があると、「将来」失明したり、腎機能が悪化しておしつこができなくなったりします。おしっこができなくなると体の老廃物が体外に出せなくなって、そのままだと死んでしまいます。透析治療といって、腕やお腹から老廃物を取り除く治療をしなければいけません。また、神経症といって、足の感覚が麻痺して腐ってしまい、足の切断を余儀なくされることがあります。心筋梗塞脳卒中のリスクも高いのです。そう、糖尿病という現象にはとても恐ろしい側面がある。

 でも、糖尿病そのものは本当に「実在」する病気なのでしょうか。

 全く症状がなくて、血液検査(など)が異常なだけ、というのが糖尿病の方の大多数のパターンです。で、検査の異常がある、ということがそもそもは病気なのでしょうか。

 はい、病気です、と医者は「定義」しました。それは恣意的に行われたのです。さらに、糖尿病はど血糖値は高くないけれど、少しだけ血糖値が異常な状態に対して「耐糖能異常」という新しい名前を付けました。これらもすべて恣意的な判断です。

 それが恣意的である証拠に、日本と外国では糖尿病の診断基準が異なるということがあります。糖尿病の検査にヘモグロビンAIC(エーワンシーと呼びます)というのがあります。これを日本では糖尿病の診断に用いますが、アメリカでは用いません。

 病気が実在するものであれば、こんなへんてこなことは起きるはずがありません。口本の糖尿病とアメリカの糖尿病の認識の仕方が異なるのは、それはあくまで病気は実在せず、現象として認識されるからなのです。現象を恣意的に名づけているからこそ、「うちの糖尿病」と「あちらの糖尿病」と異なる定義で押しても大丈夫なのです。

 同様に、高血圧、高コレステロール血症なども、みな症状がないのに病気だと恣意的に決めつけられました。その扱いや診断基準も各国様々です。

 もちろん、糖尿病、高血圧、高コレステロール血症といった病気が恣意的に定義され、名づけられたということそのことが、いけないのではありません。「俺は高血圧だと先生に言われたけど、あれはインチキだったの?」というわけではないのです。

 症状がない現象でも病気と名づけましょうね、というコンセンサス、約束事がなされているということ。そしてそれこそが病気の本質であり、何かの病気という実態があるわけではないこと。このことが了解されていればよいのです。それを何か実在する「もの」のように捉えてしまうと、いろいろ困ったことが起きてしまうのです。

感染症は実在しない(構造組成的感染額)』岩田健太郎より

メタボは実在しない

 

 恣意的に規定された、実在しない約束事としての病気の最たるものはメタボ、そうメタボリック症候群です。内臓脂肪蓄積、高コレステロール、高血糖、高血圧のある状態で、これが将来の心血管性疾患、脳卒中のリスクが高いので「病気」と認定されました。これは病気の発見というよりも、まさに「認定」と呼ぶのがふさわしいのではないでしょうか。

 メタボリック症候群の概念のあり方については、専門家の間でも意見が割れ、その概念のありようは右往左往しました。

 例えば、腹囲を何センチにするのか、男はどうか、女はどうかと散々議論が重ねられました。結局、国際的には腹囲を基準にしないことになりました。ところが、日本では「いやいや、腹囲を計測することは正しいことだ」と腹囲の計測を診断基準に残しました。さらに、アメリカ糖尿病学会とヨーロッパ糖尿病学会は、どの診断基準も問題であり、人々にメタボリック症候群というレッテルを貼ってはいけないとちゃぶ台をひっくり返し、根底から前提を覆すようなことを言い始めました。この病気の周辺はとても混乱しているように見えます。では、日本と外国、どちらの考え方が「正しい」のでしょうか。

 それについても、実はあまり悩む必要はない、と私は考えます。こう考えてみてはどうでしょうか。病気はすべて人によって恣意的に定義され、名づけられた現象にすぎず、実在するわけではないのです。メタボリック症候群も当然実在せず、世界や日本の医者たちが集まって恣意的に名づけた概念にすぎません。だから、診断基準が国によってまちまちだったり、ある基準では病気と認定される人が別の基準ではそうではなかったりという一見奇異な現象も全くあたりまえのように起きるのです。その国の医者たちの恣意性が、それだけが病気を規定しているので、病気という実在物、「もの」があるわけではないからです。メタボリック症候群という病気が実在しないという事実を理解すれば、各国で診断基準が異なるのは、ある意味あたりまえなのです。

 もっとも、世の中の人が同じ言葉を異なる意味で使っていれば、大抵の場合不便ですよね。だから、病気の名前は国際的に統一するのが望ましいと思います。これは「正しい、正しくない」という基準ではなく、「便利か、そうでないか」という観点からそうなのです。このような「何を目指しているのか」「目的は何なのか」という根源的な問いに立ち返り、そこから逆算してあるべき態度や考えを導き出していくのも構造構成主義的な思考過程だと私は思います。構造構成主義では、「正しい」「正しくない」といった二項対立的な物事の判断をせず、「どういう観点から」という異なる問いの立て方をするのです。

 メタボリック症候群でも、国際基準が正しくて日本が間違っているとか、あるいはその逆だとか散々に議論されていますが、そんなものはすべて恣意的に決められるものなので、どちらが正しくてどちらが間違っているという観点からは議論のしようがありません。自分でルールを作ったスポーツをするようなもので、そのルールが正しいと信じる人たちの間ではそれは正しく、そうでなければ間違いなのです。例えば、WBCとかWBAとか、所属する協会によって若干、ボクシングのルールが異なるのと全く論理構造は同じです。

 メタボリック症候群を病気と認識するか、そうしないかは各人の自由だと思います。まあ、比較の観点から言うと、日本だけで独自の基準を決めると他国の人との比較ができないですから、いろいろ不便なんじゃないかとは思いますが。こういうときは国際的な統一基準を作ったほうが医学的な目的に、より合致していると思います。「どっちが正しいか」という観点からメタボを議論しても仕方がないのですから、このような実利的な観点から検討したほうがよかったんじゃないかと私は思います。

 さて、私か問題だと思うのは、メタボリック症候群の診断基準があいまいであるということそのものではありません。問題なのは、このような恣意的に作られた現象にすぎないメタボリック症候群の健康診断を特定健診制度のもとで義務づけてしまったことでしょう。しかも健診を受けないことについて、ペナルティがついているという恐ろしさです。メタボリック症候群をどのように捉え、どのように理解し、どのように対峙するのかは各人各様でよろしいかと思いますが、義務化してしまうことであいまいな現象にすぎないメタボリック症候群に対する態度ががちがちに規定されてしまうのです。これはありがた迷惑、余計なお世話、というものでしょう。新型インフルエンザのときも、臨床現場のしなやかさを知らない官僚が、がちがちに診療のあり方を規定し、大混乱を招きました。同じようなおせっかいな姿勢が私たちを困らせているのですね。ある現象の認識のありようは、各人の関心から1人ひとり決めていけばよいだけの話なのですが。

 健診によって医療費の削減を目指したい、そんな意見もあるようです。しかし、人間が健康になって長寿になったことで医療費が抑制されるという証明は世界の誰も行っていません。そもそも、メタボ健診が健康を増進する、なんていうデータも明快には示されてはいないのです。

 そして、百歩譲ってメタボ健診が日本人をさらに長寿にしたところで、長寿になればその分病気になるチャンスが増しますから、むしろ医療費は増加するかもしれません。メタボ健診にも何らかの長所はあるかもしれません。しかし、何事も長所だけの存在などはあり得ず、必ず欠点と背中合わせです。そのようなメタボ健診を義務化する根拠は全くないのです。

 メタボそのものが健康に悪影響を与えるであろうことは、たぶんあるのでしょう。だから、もちろん自ら検査を受けたい人は受ければいいでしょうし、調べたい人は自由意志で調べればいいですし、あるいは医者のほうでもメタボの検査を支援してもよいでしょう。意見や態度の表明は各人の自由だと思います。でも、こうした恣意的な現象にすぎないメタボリック症候群の検査を義務づけてしまうのは、明らかに行政の越権行為だと思います。役人の支配志向、コントロール願望がもろに出た誤った判断だと私は思います。

感染症は実在しない(構造組成的感染額)』岩田健太郎より

 

がん検診は無意味ではない

 

 近藤誡氏はがんもどき理論を見事に唱えましたが、その一方で、「がん検診は無意味」と主張してきました。がん検診が患者の総死亡率を低下させていないから無意味だというものです。

 がんを全例治療しなくてもよいという近藤氏の主張には共感した私ですが、「がん検診が全く無意味」という結論になるかというと、それはどうかなとも思います。

 最近、『がん検診の大罪』(岡田正彦氏)や『治療をためらうあなたは案外正しい』(名郷直樹氏)など、やはりがん検診の価値について疑問を投げかける本が相次いで出版されています。私自身はこれらの本をおもしろく読みました。私もがん患者さんをたくさん診ていますが、がん検診や治療そのものに対しては専門家ではないので、これらの本に示されているデータの多くは私にとって耳新しいものでした。素朴に行っていた大腸がん検診や乳がん検診も、患者さんの死亡率の低下に寄与するところは思ったほどないんだなあ、という気づきもありました。

 ただ、その後はちょっとひっかかるところもあったのは事実です。本当にがん検診は無意味なのでしょうか。それとも価値のあるものなのでしょうか。

 それは、各人の価値の持ちように関わっていると思います。

 岡田氏はこう主張します。「(子宮がん検診は子宮がんによる)死亡率を減らすことができても、総死亡率を減らすほどの効果はない」。だから、がん検診は無意味だと。近藤氏も同様の主張をしています。これは、「総死亡率を下げなければがん検診の価値はない」という主張と換言することができるでしょう。

 そうでしょうか。私はがんの専門家ではありませんから、―つひとつの論文のデータを正当に吟味する能力はないかもしれません。しかし、ある主張の論理構造の問題は指摘することは可能でしょう。「総死亡率が下がらなければ検診は無意味」という言説そのものを考えてみましょう。これは本当なのでしょうか。これは科学的な事実というよりある種の価値観、態度を表しているように見えます。したがって、この言説に賛成したり反対したりすることは可能だと思いますが、正しいか、正しくないかという観点から議論することは不可能なのではないでしょうか。

 例えば、世の中には「子宮がんだけにはなりたくない」と思っている人がいらっしゃるかもしれません。そういう人にとっては子宮がん検診は価値があるのではないでしょうか。総死亡率が下がるかどうかは、岡田氏や近藤氏が個人的に抱いている価値観の問題であり、そんなことは検診を受ける当事者が決めればいいだけの話だと私は思います。構造構成主義的に言うと、関心相関的に、がん検診に意義は見いたされたり、見いたされなかったりするのだと思います。

 子宮がん検診はそれほど痛くない検査ですし、放射線曝露もありません。ただ、プライベートな場所を他人にのぞき込まれ、膣に医療器具を入れられるなど、愉快でない検査であることも事実です。しかし、がんにどうしてもなりたくない、早く治療を受けたいという価値が強ければ、そういう不愉快さも許容されるかもしれません。両者の利益と不利益をどう捉えるかは、それはその人の自由なのではないかと思います。

感染症は実在しない(構造組成的感染額)』岩田健太郎より

子どもが髄膜炎になるのを容認できるか

子どもが髄膜炎になるのを容認できるか

 予防接種も同様です。インフルエンザ菌という細菌がいて、子どもの髄膜炎や喉頭蓋炎といった恐ろしい病気の原因になっています。日本では毎年何十人という子どもがこの菌の犠牲になって命を落としています。命を落とさなくても、脳に障害を受けて、一生歩けなかったりしゃべれなかったりすることもあります。

 諸外国では、この菌に対する予防接種が普及してきています。そのような国ではこのような病気はほとんど撲滅されています。

 さて、インフルエンザ菌のワクチンは、もしかしたら日本人の総死亡率は減らさないかもしれません。しかし、元気な子どもが突然死亡したり、一生神経に重い障害を残したりするという悲惨な事態を避けることはできます。そのような目的に照らし合わせている限り、インフルエンザ菌ワクチンは非常に価値の高いワクチンであると言えるでしょう。だから、諸外国同様、日本でもインフルエンザ菌のワクチンはどの子どもでも自由に接種できるよう無料で提供されるべきだと私は考えています。

 総死亡率は確かに「価値の1つ」でしょう。でも、総死亡率は「価値のすべて」ではありません。私たちは他にも大切な価値をたくさん持っているのです。それに、ながIい目で見れば、私たちみんな死亡率100%の生き物です。生きているものはいつかみんな何らかの理由で死んでしまいますから、長い目で見ると、死亡率を下げるのは原理的に不可能ということになります。要は、何歳で死にたいか、どのように死にたいか、という価値観の問題になってくるわけです。大切なのは、何を大事な価値と捉えるか、それを各人が明確にすることだと思います。

感染症は実在しない(構造組成的感染額)』岩田健太郎より