脳死という概念の出現


 脳死とは、脳が死んでいる状態、あるいは脳の機能が不可逆的に停止した状態をさす言葉として一般に定義されています。この脳が「死んだ」状態と脳の機能が停止した状態とをイコールとみるか、それとも別個のものとみるかによって議論が分かれてくるのですが、そのことは後にゆずるとして、とにもかくにも「脳が死んでいる」と考えられる状態をとくに表す言葉として、脳死という言葉が出現してきたのです。

 すでに今世紀のはじめから、今でいう脳死の状態が存在することはH・クッシング等の医師によって、実験的、または臨床的に経験されていました。しかし、当時においてはその状態を、とくに脳死として特別なものとしては認識することはなかったとのことです(福間誠之『脳死を考える』、日本評論社、一九八七)。脳死がとくに問題となってくるのは、近代医療技術が進み、機械的人工呼吸がおこなわれるようになってからのことです。

 一九五九年にはフランスで人工呼吸器をつかった患者が、脳が機能している証拠もなく生かされている状態を過度昏睡と呼び、この問題について議論するためのシンポジウムが開かれています(太田富雄訳『脳死』、メディカル・サイエンス・インターナショナル)。当初は限りある医療資源を脳死者に対して費やすべきかどうかといったような、脳死者に対しての治療の是非の議論が中心だったようですが、一九六七年末に南アフリカのクリスチャン・バーナードがおこなった世界初の心臓移植手術によって議論の様相は大きく変わり、議論の表舞台にさっそうと登場した脳死は、従来のものに代わりうる新しい死の概念として整備されていくようになったのです。

 そういう意味では、脳死と臓器移植との本質的な無関係さ(唄孝一 『臓器移植と脳死の法的研究』、岩波書店、一九八八)にもかかわらず、脳死はその当初から臓器移植と切っても切れない関係にあったとも言えるでしょう。たしかに初期の心臓移植手術は、心臓提供者の心停止を確認してからおこなっていたので、かならずしも脳死者からのものではなかったのですが(米本昌平『先端医療革命』、中公新書、一九八八)、しかし従来の死の判定の拠り所となっていた心臓そのものの移植というその性格ゆえに、それは確実に死の定義の見直しを迫るものであったと言えます。実際に翌年の一九六八年には早速、以後の脳死判定基準の原型となることになる(Iバード大学医学部の特別委員会による基準が報告されています。

 日本においてもこの辺りの事情は似たようなもので、一九六八年に日本脳波学会が「脳波と脳死委員会」を発足させて脳死判定基準作りを開始するのは、いわゆる和田心臓移植の二ヵ月後でした。どちらにせよ心臓移植手術が脳死判定基準作りをリードするという構図には変わりがありません。

 そもそも死の判定そのものは、人類の誕生以来ずっとおこなわれてきたもので、歴史上医師の独占業務になったのは比較的最近のことでしかありません。ある意味で人が生きているか死んでいるかというのは、一定の時間経過さえ見ていれば、「あっ、これは生きている」「あっ、これは死んでいる」とだれにでも判断のつく現象にほかなりません。そういう意味では、生物システムとしての有機的統一性の破綻から腐敗にいたる一連の連続的過程の中にこそ死が存在するのであって、人はその過程をひとわたり見たうえで事後的に死が訪れたことを確認し、その上うにして人類はずっと死の判定をしてきたのです。

 そのうえ医師の専門職集団が出現してくるのは一八、一九世紀以降のことですから、それ以前は医師に判定を委ねること自体が大半の人びとには無理なことだったのです。一九世紀を通じて資格制度などの整備をすすめ社会制度的にも地歩を確立しつつあった専門職集団である医師が、複雑化する近代社会の制度的贅請を受け、科学性にもとづく信用を背景にして死の判定という業務を独占することになったのです。もっとも独占といってもその判定基準は息が止まり、脈がなくなって、瞳孔が開くという、いわゆる「三徴候死」と呼ばれる常人にも十分納得可能なものであったからこそ、その権限が依託され得ることが可能だったのでしょう。

 さらに近代社会は、死の時刻の特定という新たな社会的要請を医師に求めるようになりました。近代は普遍的時間の支配する世界を作り出したと言われますが、そういった社会では物事の継起の後先が重要な意味をもってくるようになります。とくに近代的市民としての権利と義務の存在の如何を左右する生死の転換の時刻を一つの瞬間に特定することは非常に重要な操作的行為であり、そこで死という本来は連続的な過程のなかに、大きな不連続を生みだす一つの決定的な瞬間をもうけることが必要になってきたのです。