大動脈の壁が崩れるマルファン症候群

 一九九九年九月初句、ヒトの臨床試験まであと一年しかなく、部下の研究者たちが、まだランボーをマウスに注射していたとき、オナーはカナダのハミルトン在住の男性から切実な電話を受けた。BBC制作のテレビ番組を見て、ファージーセラピューティクス社とグルジアの研究所について知ったというのだ。その男性によれば、彼の母親が大動脈の壁が崩れるマルファン症候群という生命にかかわる心臓病を患い、手術を受けた。母親は、大動脈を人工血管に置き換える手術を受けたが、その後、多剤耐性黄色ブドウ球菌の全身性の感染症にかかった。人工血管に付着していた細菌が原因と思われた。医師は、考えうるすべての抗生物質を試したが、母親の容態は急激に悪化し、いまでは生命維持装置につながれている。医師たちには最後の戦略があった。細菌に感染した人工血管を、解剖用の遺体の大動脈に置き換えるというのだ。だが、母親の黄色ブドウ球菌に感染した血流を除去しないかぎり、その処置をおこなう意味はないという。ちょうどそのころ、男性は、オナーとエリアヅアの研究を紹介するテレビのドキュメンタリー番組を見て、ファージが薬剤耐性黄色ブドウ球菌に奇跡的な効果をしめすことを知ったのだ。「いますぐ、そのファージを送ってもらうには、どうすればいいんでしょう?」

 「まだ承認された製品がないのです」オナーは話しながら、戦略会議に集まっている重役たちに身ぶりでしめした。「しかし、お母さまをお助けしたい。ですから、こうしましょう」

 オナーは男性に口止めした。「許可を得るために、この話はぜったいに病院関係者には漏らさないでもらいたい。つまり担当医師だけでなく、生命倫理委員会、臨床微生物学者、経営陣など、病院にたずさわるあらゆる階層の人間にいっさい話さないでもらいたい。すべて、特別な配慮による特例、つまり『治験外使用』で、この未承認の治療の施行を認めてもらうためです。治験外使用が認められたら、担当医師が母上の血液の臨床分離株をこちらに宅配便で送ってくださればいいのです」

 男性は、オナーが助言したとおりのことをした。そして翌日、母親の血液のはいったガラス瓶が、ファージーセラピューティクス社のオフィスに到着した。研究室で、この多剤耐性黄色ブドウ球菌ランボーがいれられた。

 ファージは、この耐性菌を抹殺した。