三徴候死と脳死の違い


 従来の死の判定にかわって脳死でもって「人の死」を判定しようとすることの意味はどこにあるのでしょうか。

 従来の死の判定基準は、①呼吸停止、②心拍停止、③瞳孔散大と対光反射消失という、いわゆる「三徴候死」と呼ばれる基準です。これは人間の生存にとって非常に重要な意味をもつ呼吸系、循環系、神経系という三つのシステムすべての機能停止をもって死を判定するという考え方です。この三徴候はある意味では古くから人類がもってきた経験的な知識ですが、同時にそれはこの三つのシステム系それぞれが人間存在にとって等しく重要性をもっているとする人間観の表明でもありました。

 一方、脳死は、脳という一臓器の死を指しているに過ぎません。したがって脳死をもって「人の死」とすることは、他の臓器あるいはシステム系が相対的には人間存在にとってどうでもよいということの表明でもあります。つまり脳死ということは、脳という臓器あるいは、神経系という一つのシステム系に特権的地位を与えるという従来とは別個の新しい人間観の表明なのです。三徴候死と脳死というこの二つの判定基準の間には明らかに人間観の質的な差が存在しており、それは単なる医学的問題や技術的問題には還元できない根本的な立場の差の問題でもあるのです。

 そういう意味ではときどき見受けられる三徴候死=心臓死とする議論は正確ではありません。三徴候死=心臓死としうるのは、従来ほぼ同時に起こっていたこの三つのシステム系の死をたまたま心臓で代表させたという場合のみであり、そうでなければ心臓死というのはあくまで心臓という一臓器の死、あるいはそれを強調する立場ということになるでしょう。象徴論的な意味や霊的な意味で心臓を特別視する立場は当然考えられますし、そういう立場から心臓死=「人の死」とすることがあっても不思議ではありません。ある意味ではわが国における三徴候死=心臓死とする議論の幾分かには、そういったニュアンスがふくまれているのかも知れません。