瑕疵があるから価値がある

 

 論文を読む上で一番大事だと私か思うのは、方法や結果ではなく、「制限」の部分です。英語ではこれをlimitationと呼びます。もちろん、研究において方法や結果は重要です。重要ですが、この部分よりも論文の価値の高い低いを区別するのにとても役に立つのが、論文の終わりのほう、考察の部分に出てくる「制限」なのです。

 制限とは、論文を書いた著者白身が「自分の論文にはこのような欠点がありますよ」と表明する部分を言います。科学者がいくら完璧な論文を書きたくても、いろいろな制約があるため、100%完璧な研究はあり得ません。研究費が不十分で検査のお金が足りなかった、時間がなくて十分なデータが集まらなかった、患者さんがあまり研究に参加してくれなかった……といった即物的な制限もあります。手術の効果を厳密に見るため、開腹するけど実際には手術をしないグループと比較する、という手術のやり方があります(これをシャム手術と呼びます)。メスでお腹を切って手術をしないというのは倫理的にどうなの?という批判もあります。現在、学術研究は内外の倫理委員会の認可を受けてからやるのが通常ですから、ときに倫理的な理由で、科学的な吟味としては少し問題があるけど、これ以上やると許されませんよという部分がどうしても生じます。これも制mの1つです。また、ある治療法がどんなに優れていても、その研究の対象者が白人だったり、男性だったり、中年の人が中心であれば「では、黒人や黄色人種ではどうなの? 女性では? 高齢者や小児ではどうなるの?」という疑問もわいてくるでしょう。いろいろな人種を集めて研究したとしても、「では腎臓に病気のある人ではどうなの?」とか、「こういう薬を飲んでいる人でやっても安全で効果があるの?」と細かい疑問は次々にわいてきます。すべての人に適用できる、すべての条件における疑問に答えられる臨床研究を行うことは、原理的に不可能なのです。どんなに素晴らしい一流誌に載っている論文でも瑕疵は必ずあると言ったのは、そのためです。

 瑕疵があることそのものは必ずしも学術論文の価値を落とすものではありません。瑕疵はあるのです。それは原理的に完全には排除しきれないのですから。

 では、医学者はどうしたらこの問題を克服できるのでしょうか。

 医学者にできる唯一のことは、瑕疵の存在を認め、それを認識し、それを開示することしがないのです。「私たちの論文は全力を尽くしてここまで新しいことがわかりました。でも、あれやこれやの欠点はあります。それをここに表明します」と言うよりはかないのです。

 瑕疵の表明こそが論文の価値を高めてくれます。

 でも、日本の学術論文には残念ながらこの「制限」をきちんと書いていないものが多いのです。日本発の学術論文の最大の欠点がここにあると私は思っています。「こんなことがわかりました」「こんな事実が出ました」といいことばかり書いて、その欠点を吟味しか議論がありません。これは質の低い論文です。欠点を表明した論文こそが質が高く、価値の高い論文で、「俺の論文って完璧」という論文はダメなのです。

感染症は実在しない(構造構成的感染症学)』岩田健太郎著より