バイアスの排除は原理的に不可能

 

 論文の評価をするときに大切なのは「バイアスを見抜く」ことにあります。バイアスとは、偏見、先入観のような意味を持つ英語です。論文はできるだけ客観的に、科学的に作るものですが、どうしても私たち医者は先入観を持っています。特に問題なのは私たちの主義・主張です。「この治療は効くと思う」「この検査はいいと思う」という思い入れがどうしても入ってきます。先入観が入ります。いくら虚心坦懐に誠実に、客観的に研究を進めようと思っても、私たちのバイアスは完全には排除できません。都合のいいデータは強調し、都合の悪いデータは過小評価したり、ひどい場合には隠蔽したり、データをねつ造したりします。

 2000年New England Journal of MedicineにVIGORと呼ばれる研究に関する論文が掲載されました。cox2阻害薬と呼ばれる鎮痛薬が関節リウマチの患者に効果的で、かつ従来の薬よりも消化管出血などの副作用が少ないという論文でした。ところが、この論文に出された研究データには、実は心筋梗塞などの副作用が起きていたことがわかっていたのです。しかし、なんとこの論文を書いた著者たちは、その事実をあえて隠蔽して提出したのでした。薬を製造し、研究のスポンサーになっていたメルク社が、自社の製品を売り出すために意図的に隠蔽したのでした。ビオックスと呼ばれるこの薬は、いったん承認、販売されていたのですが、このようなスキャンダルが明るみに出て承認を取り消されてしまいました。洋の東西を問わず、医学の領域だけでなく、このような隠蔽事件はしばしば起きます(明るみに出たものだけでも……)。都合の悪いデータは出さず、都合のいいデータだけ強調するといった微妙な隠蔽、ねつ造工作はしばしば行われます。

 このように、バイアスというのは研究の質を低めてしまいます。そこで、バイアスを排除するために、医者も工夫しました。

 まず、研究者にブラインド化ということを行いました。ブラインドとは「覆い隠して見えなくする」という意味です。ここでは、新薬を飲んでいる患者が誰かわからないようにするのです。例えば、吉田さんは新薬を飲んでいて、田中さんは飲んでいないとわかっていると、[新薬は効いていると思う]という主張をしている研究者が吉田さんだけえこひいさして丁寧に治療して、田中さんはぞんざいに診療しかねません。本人は「そんなことはない、みんな平等にやっている」と思っていても、無意識にそのようなことを行いかねないのです。

 出版バイアスというのもあります。「新薬の効果がある」という論文は掲載されやすいですが、「効かない」という論文はお蔵入りになりやすいのです。スポンサーになっている製薬メーカーが「それは出さないでほしい」と圧力をかけることもあるでしょうし、新薬は効くと信じている研究者が自分の学説を否定するデータを出したくないときもあるでしょう。これを防ぐために、現在諸外国では臨床試験を始める前に登録させることになっています。最初に登録した研究は、かならず結果を発表しなければなりません。そして、事前に登録しない研究は学術誌に掲載されないのです。これで出版バイアスを防正しようというのです。

 このように、いろいろとバイアスを排除する技術は進歩しています。けれども、原理的には、完璧にバイアスをゼロにする方法はありません。それは排除しようのないバイアスが存在するからです。

 それは、読み手のバイアスです。

 論文の質を下げるバイアスを排除するために、論文の書き手には様々な制約があります。一所懸命にバイアスを排除しようとするのです。しかし、論文の読み手には何の制約もありません。第三者機関の監査もつきません。読み手は自由に論文を読むことができます。斜め読みをするのも、行間まで読み込む構読も、タイトルだけ読むのも自由です。当然、誤読も自由に行うことが可能です。

 論文の読み手も、当然論文の内容・領域に高い関心を持っている人たちで、しばしばその道の専門家です(そうでなければ、面倒くさくて読まないでしょう)。で、当然読み手にも主義・主張があります。自分の主義・主張に合致した論文であれば、「よっしや、俺の言った通りじゃないか」と諸手を挙げて賛成するでしょう。多少の瑕疵には目をつぶるでしょう。あばたもえくぼ、というわけです。しかし、自分の主義・主張に反する内容であれば、「何だこの論文は。サンプルの数が足りないじゃないか。統計処理にミスがあるぞ。それにスポンサーはこの薬の製造者じゃないか。バイアスがかかっとる。わしや、こんな論文絶対に認めんぞ」となるわけです。要するに、最終的には読み手の好き嫌いが論文の評価を分けるわけです。

 私自身も、自分の専門領域に主義・主張があります。ですから、論文の読み方にも当然バイアスがかかっています。論文をほめたりけなしたりも、その主義・主張を土台にしていますから、到底フェアに公正に読んでいるとは言えないでしょう。

 医者の主義・主張そのものだって、バイアスになるに決まっています。そして主義・主張を全く持っていない医者なんて、金銭欲のない商売人くらいまれな事象ですから、それを排除することは不可能です。EBMは長らくバイアスとの戦いでしたが、そもそも研究者そのものにある内なるバイアスや、論文の読者に備わったバイアスは除去しようがないのです。だから、私たちにできるのは、そのような内なるバイアスに自覚的であり、それを明示することだけだと思うのです。「私は、がんは切ったらダメだと思い込んでいる主張を持っています」とか、「私は世の中のほとんどの害悪は薬害だと信じ込んでいます」とか。

 そのような自己内の主義・主張、信念を開示し、明示化することで逆にそれらは相対化されていきます。「しょせんそれは主義・主張、信念のなせる業じゃないか」といったん懐疑的に見直すチャンスが生まれるのです。これがうまくいく保証はどこにもないのですが、これ以外の方法もどこにもないと思います。

感染症は実在しない(構造構成的感染症学)』岩田健太郎著より