ドイツ医学の愚を受け継いで

 

 東大医学部の内部批判は、ごく皮相的なものでしかなかった。

 そもそも、東大医学部の軌跡は日本軍国主義を医学・医療の面から補完することであり、けっして国民のための医療の確立を視点に据えたものではなかったのだ。

 軍国主義的政策下での医療とは、労働力部品、戦闘消耗品としての国民の健康管理であり、一定の社会的ニーズの役割を果たせない弱者を常に切り離す機能を担わされたのが、大学医学部の露骨な任務であった。

 むろん、こういう言い方は一方的であるという謗りを受けることが充分に予想される。しかし、東京大学医学部総体の機能は、彼らの好むと好まざるとにかかわらず、そこに尽きている。

 権力機構としての医局講座制は、そもそもはドイツ医学の模倣であった。ではドイツ医学とはどのようなものであったかが、もっと詳細に問われなければならない。

 ドイツ医学が、世界でも絶頂期にあったのは、一九世紀後半から第一次世界大戦の始まる大正三(一九一四)年ごろまでであった。ヨーロッパのなかでも発展が遅れたこの国が、二○世紀に入って、アメリカ、イギリス、フランス、日本など世界各国からの医学留学生を数千人も集めるようになっていっだのは、科学研究に対する明確々システムを作りあげたからであった。

 主にフランスで発達した中世の臨床学派の流れを汲む医学研究は、直接、臨床現場において研究を行い、その経験則によって医療技術を発達させていった。医学知識とは、これらの医療技術を体系づけたものであり、ときに臨床の補完物となるものにすぎなかった。このような臨床学派を一掃したのが、ドイツ医学だった。

 ドイツ医学は、研究室主義であった。医学研究とは、書物の論理や体系のなかからの仮説の実証であり、その仮説を幾重にも拡大することによって、人類の医学研究は支えられていると考えられたのである。これは、臨床学派とは基本的に異なる思想であり、患者や病室は、単にその仮説の検証を行うための場でしかなくなった。

 ドイツの大学医学部の教授たちは、研究室という空回で、あらゆることを自由に行う特権を持っていると考える。この空問のなかでは、まさに独裁者であり、この空間に身を寄せてくる者たちは、独裁者のエピゴーネンとして育っていくのであった。

 一方で、この空間は、時代の権力者によって自在な操作が行われる危険性が伴う。医学研究者の研究は、政府によって吸収され、その政策の補完物となって、反国民的に転化していく。医師・研究者の個人的な能力と対象への興味は、政治の論理に組みこまれやすいのだ。

 ドイツ医学の明らかな欠点が、ここにあった。医師・研究者が真面目に熱心に医学の進歩をはかろうとしても、ときとしてそれが反国民的な抑圧機構として機能することがあるのである。ドイツ医学が、ヒットラー政権下で政治に従属してしまった裏には、この図式を明らかに汲みとることができるであろう。

 そして、東大医学部の歴史の断面もまた、それに似た愚を犯したといえるのである。