ヒットラーの母子手帖

 

 もう一点は、東大医学部が国家の健兵政策(「良い子、強い子、御国の宝」といった優生保護政策)のなかで果たした役割だが、それを紹介しておこう。

 内務省は、国民の健康と福祉に関する執務を、昭和一三(一九三八)年に切り離すことになり、厚生省を設置した。「皇国の臣民にふさわしい健康錬成」を目的とするこの省は、東大医学部の全面的な協力を得てスタートした。当時、陸軍の軍医中将であった東大医学部出身の小泉親彦は、その中枢の役割を担った。

 厚生省のフィールドワークの一環として、東大医学部から二人の優秀な医学者がドイツに国費留学を命ぜられた。彼らは、東京大学医学部を優秀な成績で卒業したのがたまたま昭和一三年ごろであったために、医師・研究者として国家に隷属させられるプロセスにつながっってしまったのである。

 二人の少壮の学者は、折からヨーロッパ戦線で軍事的膨脹をつづけつつあるドイツに渡り、厚生省に身を置いた。そこで二年間、この二人の医学徒は研究をつづけた。

 二人のうちの一人は、母子手帖の研究に入ったが、それは結果的に、当時ドイツで施行されていた「優生保護法」の忠実な代弁者になるための研究となった。

 「優生保護法」は、人間の先天的遺伝子の持つ能力をよりプラスの方向に向けるため、遺伝的に弱い染色体を持つ弱者は排除していこうとする。それによって、肉体的・構神的障害者を産まないことを是としてしまうような医学的検証を行ったのである。この考えは、むろん当時のヒットラーが意図したユダヤ人撲滅、社会的弱者の切り捨て、一部の民族を根絶やしにするという暴挙を遂行する際に医学的な言説を付与する役割を担った。単にそれだけではなく、ドイツ陸軍の長期的展望をふまえて、強兵を無限に作りあげていくための軍事思想を補完するものともなってしまったのだ。

 そのころのドイツの母子手帖には、母体保護や生まれる子どもの健康管理という功はそれはどなく、民族的差別の証明として利用されていた。「ゲルマン民族であること」を優位に
置き、他の民族を蔑視する露骨な差別を行うための道具と化していたのである。

 二年間の留学を終えて戻ってきた二人のうちの一人は、厚生省内に設置された母子衛生課に所属する。

『物語 大学医学部』保阪正康著より