在宅酸素療法、在宅人工呼吸法

 わが国では在宅酸素療法は、一九七〇年代から一部の医療機関で実施されていました。しかし、これが全国にひろがり、今日のように六万人もの人が利用できるまでにいたったのは、健康保険が認められるようになってからのことです。私たちの病院では、一九八二年から在宅酸素療法を開始しました。

 しかし、これをはじめる以前のことは、いま思い出しても胸が痛む思いがします。五三歳で高度の肺気腫で入院していたNさんは、第一線の新聞記者でした。あちらこちらの病院を転々としたあげくに移ってこられました。家が近いということが理由でした。しかし、酸素吸入を必要とするというただ一つの治療のため、一年以上の入院生活になってしまいます。デンバー・グループがやっているように酸素ボンベを貸し出そうとしますが、消防法上違反となるからと強く止められました。何か事故がおきれば誰が責任をとるのだと、いままでにない新しいことをはじめようとするといつもついてまわる忠告です。

 Gさん、七五歳。やはり高度の肺気腫でした。じっとしていればなんとか動脈の中の酸素はほぼ正常に近く保たれていましたが、衣服の着脱や、顔を洗うというわずかな動作でも高度の酸素不足になり、チアノーゼが出てしまいます。やはり数カ月間の入院でしたが、私たちにはどうにもならないことでした。そのGさんが、最後の望みとしてお伊勢詣りにいきたいと言い出したときには、私たちもすっかり当惑してしまいました。車椅子を使い、新幹線を利用し、それも幅の広いグリーン席を予約してもらいました。五〇〇リットルの酸素ボンベを三本携えてもらいましたが、途中で万が一の不足や病気の急変に備えて、名古屋の友人に頼み、待機してもらいました。しかし、思いがけないところで問題がおこりました。東京駅で乗車しようとしたところ、酸素のような「爆発物」の車内もちこみはならぬと、駅員から止められてしまったのです。家族からの連絡で、うんざりするくらい長い時間をかけて酸素ボンベが爆発物ではないことを説明した覚えがあります。

 酸素ボンベをもっての不自由な外出ではありますが、いまでは航空機での海外旅行ですら可能になりました。偉大なる進歩というべきでしょう。また、このような酸素療法は呼吸リハビリテーションの一つと考えられています。しかし酸素は末期の人が使うものとの固定観念でしょうか、患者さんに自宅で「酸素を吸いましょう」と説明すると、絶望的な表情をされることがあります。また外出するときに酸素ボンベをもつていると、奇異な目で見られるから恥ずかしいと言う人も少なくおりません。

 持続的な酸素吸入の医学的効果はかならずしもすべてが解明されたわけではありません。欧米では在宅酸素療法のもっとも多い疾患は慢性閉塞性肺疾患で、九〇%以上を占めています。現在、わが国では四十数%ですが、喫煙率がかならずしも減つていないことから、さらに増加すると予想されています。

 酸素吸入を自宅でもずっとおこなうと、どんな効果があるのでしょうか。もっともわかりやすいデータは、同じていどの慢性閉塞性肺疾患在宅酸素療法を実施した人は、実施していない人にくらべて長生きすることです。酸素吸入は、吸入する量を増やすよりも吸入する時間を延ばすことが大切です。半日吸っていた人と一日のうち二〇時間以上吸った人では、後者のほうが長生きであることが知られています。

 酸素吸入は呼吸困難を緩和させるためにおこなうものではありません。あくまでも酸素が足りなくなった分を補うためにおこなわれるわけで、「薬」と同じ考え方で取り扱われています。在宅酸素療法が医師の処方箋によって開始されるようになっているのはこのような理由によるものです。

 睡眠時無呼吸症候群のところでお話しましたが、最近では、在宅酸素療法に加えて在宅人工呼吸法までが健康保険で認められるようになってきました。これまでにも在宅人工呼吸法は筋ジストロフィーなどの呼吸にかかわる筋肉の病気の人におこなわれてきました。宇宙物理学者ホーキング博士が、在宅人工呼吸をしながらも世界的な研究をつづけていることはご存じでしょう。アメリカの病院では治療費がきわめて高額なだめ、在宅酸素療法と同時に早い時期からおこなわれていました。人工呼吸器も小型化が進み、操作がかんたんで故障も少ないものが開発されていきます。夜間は自宅で人工呼吸を実施し、昼間はふつうに働いている、そのような人たちがこれから増えてきそうです。