東京ゼミナール事件

 

 新設私立医科大学の不明朗な入試は、受験ブローカーの格好の餌食ともなってきた。「とにもかくにも医学部に子弟を送りこみたい」と考えている父母は、これらのブローカーによって赤子のように手玉にとられていたという。

 この時期の受験ブローカーの跳梁跋扈ぶりを象徴する事件を紹介しておこう。昭和五四二九七九)年五月に起きた、「東京ゼミナール事件」と呼ばれる大がかりな医科歯科系大学の不正入試事件である。

 東京ゼミナール(東京・四谷)の理事長、斎藤博は、表向き医科歯科系大学受験生のための予備校を経営しつつ、その裏では大がかりな裏口入学工作を進めていた。「なにがなんでも息子を医学部に入学させたい」という開業医から多額の活動資金を集める一方で、新設私立医科大学や歴史のある私立医科大学の内部に斡旋役を務める人物を作りだし、密かに入学ルートを確立していたのである。

 このルートが発覚して、関係者名が次々と明らかにされていった。代議士秘書、大学医学部教授のほかに現職の東京高検検事までが絡んでいた。この検事は、斎藤から四〇〇万円の斡旋料をもらっていた。さらに代議士秘書も、斎藤から1000万円単位の斡旋料を受けとって、裏口入学工作に一役買っていたのである。

 東京ゼミナール事件で明らかになった受け入れ側の医学部は、日本大学歯学部、杏林大学などであったが、日大歯学部の場合は、生物担当試験委員の現職教授ががらんでいるというひどさだった。この教授は、試験直前に東京ゼミナールの生徒をホテルに集め、「特訓」と称して実際の入試問題と似たような問題を暗記させていた。こうしてひとりの生徒を合格させるたびに、二〇〇万円から三〇〇万円もの斡旋料を受けとっていた。

 また、現職検事の場合は、日大理工学部の教授から「東京ゼミナールの○○という生徒を杏林大学に入学させてほしい」と頼まれ、杏林大学理事長にその受験生の名前と受験番号を連絡した。この生徒は合格したという。

 後日談もまたお笑い草であった。「金権入試」らしく、この生徒の親が入学の条件として買うはずだった学校債を買わなかったため、理事長が激怒して、検事に「約束が違う」と怒鳴りこんだというのだ。

 裏口入学は、すべて金次第ということがはがらずも裏づけられていた。

 学力より金力、人脈という裏口入試に、当の医科大学の理事長まで絡んでいるところに問題の根の深さがある。

 「東京ゼミナール事件」は、氷山の一角ではないかと憂慮する声は、当時、新設私立医科大学の教授のなかからも聞こえてきた。

 私か取材した「札つき」の私立医科大学の教授は、当時、経営優先の体質に嫌気がさしたといいつつ、生徒のなかには学力が話にならないほど低い生徒がいて、極端な話をすれば英単語の理解力が中学生の段階で止まったままの者もいると嘆いている。

 「あの生徒はカネで人つたな、というのは、だいたいわかります。一時期は、そんな生徒が相当いましたよ。いろいろなルートがあり、とにかく億に近いカネを積んで入学してきたなということが、われわれにもおよそ推測がつきました。授業を始めるとすぐにわかりますしね。中学生程度の語学力なんですから……」

 国立大学医学部から転じたこの教授にも、どういう人脈を辿ってくるのかは不明だが、「息子を入学させてくれないか」と近寄ってくる者がいたという。それを断るのが、赴任からしばらくの期間の仕事だったともつけ足すのである。そのうちに、こうした医科大学の教授たちは、質の高い医師・研究者を養成するのはあきらめてしまうのである。かわって、次
のようなことばを吐く。

 「良き臨床医というのは、なにも研究水準が高いということではない。患者の心がわかる、患者の痛みがわかる医師のことです。うちは、そういう医師を作りあげる以外にない。そして、自分で判断のできない病名のときは、すぐに大学に持ってこい、そうすればこちらで充分診察するから……といっているんです」当時、まことに不安気そうな表情で、眉をひそめて語ったものであった。

『物語 大学医学部』保阪正康著より