2014-06-12から1日間の記事一覧

ヒットラーの母子手帖

もう一点は、東大医学部が国家の健兵政策(「良い子、強い子、御国の宝」といった優生保護政策)のなかで果たした役割だが、それを紹介しておこう。 内務省は、国民の健康と福祉に関する執務を、昭和一三(一九三八)年に切り離すことになり、厚生省を設置し…

帝国大学が輸入した社会医学

東大医学部の一〇〇年余にわたる歴史には、問われなければならないいくつかの問題がある。無数に行われた人体実験、軍国主義的侵略戦争下での医療協力、さらに国家権力の先兵と化しての医学研究の数々である。私は、基本的に、それらの医療行為は国民的次元…

ドイツ医学の愚を受け継いで

東大医学部の内部批判は、ごく皮相的なものでしかなかった。 そもそも、東大医学部の軌跡は日本軍国主義を医学・医療の面から補完することであり、けっして国民のための医療の確立を視点に据えたものではなかったのだ。 軍国主義的政策下での医療とは、労働…

エリートの本音

東大医学部には、マフィアとして必須の要因でもある、個人の信条や思想を超えた同盟意識がある。 昭和四二年から翌年にかけて起きた、全国青年医師連合(青医連)による医学部闘争の際、「関連病院に行くことをボイコットする」運動があった。これは、インタ…

新設医科大学の医師国家試験対策

新設私立医科大学のカリキュラムには、一年次から医学専門課目が大幅にとりいれられていた。二年次には、もう基礎医学の課目が始まっている大学もある。ところが、六年次になると授業は臨床実習だけとなり、その時間もグンと少なくなる。他大学では六年次に…

防衛医大と産業医大の秘密主義

ところで、当時、カリキュラムの内容を一切外部に知らせないでいたのが、防衛医大であった。 二九七三年に開設したこの医学部は、純粋の大学医学部ではない。防衛庁設いて設置された準大学校で、正式には、防衛医科大学校という。当時の加納保之校長は、こと…

岡山大学方式の改正

筑波大学のカリキュラム編成の利点と京大の独自な入門講座での講義をミックスした形で、カリキュラム編成に力を入れてきたのが、岡山大学医学部である。昭和三〇(一九五五)年ごろから、医学部内で故・八木日出雄教授らを中心に「課程編成委員会」を作り、…

エクスポネンシャル・バイオセラピーズ社

二〇〇二年の初頭、新興ファージ企業三社のなかで、ある意味でエクスポネンシャル・バイオセラピーズ社は穴馬だった。このリチャードーカールトンの会社には、ファージ・セラピューティクス社が直接入院患者に投与して、治療に成功したと申したてているよう…

イントラリティクス社

実際、それこそ、グレンーモリスのイントラリティクス社が、二〇〇一年の秋までいじくっていたものだった。分離株をトビリシと四年にわたって交換しつづけたあと、モリスの新会社は国立衛生研究所と交渉し、VREにファージを投与する臨床試験第一相のスポ…

カナダの国境を越えて未承認の医薬品を送った

その日のうちに、オナーは、宅配便でハミルトンに二回分のランボーを送った。ファージがはいったガラス瓶をトロント空港で受け取った病院の職員は、急いで税関を通り、すぐさま車で病院に向かった。その日、ハミルトンの母親の胸を開いた外科医は、オナーに…

大動脈の壁が崩れるマルファン症候群

一九九九年九月初句、ヒトの臨床試験まであと一年しかなく、部下の研究者たちが、まだランボーをマウスに注射していたとき、オナーはカナダのハミルトン在住の男性から切実な電話を受けた。BBC制作のテレビ番組を見て、ファージーセラピューティクス社と…

北米全土とヨーロッパ各地からファージを集めていた

論理的に考えてもっと心配されたのは、細菌がファージに耐性をもつようになることだ、とモリスは感じていた。だが、リチャードーオナーが遺伝子を操作してつくろうと提案している代物とはちがい、天然ファージの美しさは、細菌といっしょに突然変異を起こせ…

医学界の権威がこぞってファージに反対表明

ボルティモアでは、「ケイシー・ハーリンテンがトビリシとの関係を断った」と知り、グレンーモリスとサンドロースラクヴェリジが意気消沈していた。モリスたちは、グルジアの研究者がきちんとした扱いを受けていないと感じていた。それにかれらは、リチャー…

分子生物学の知識

一ヵ月後、ハーリンテンはトビリシに飛び、自己紹介をすませると、研究所を見学した。研究所はどこも荒廃していたが、「ここをこぎれいにし、必要な実験器具をそろえるには二〇〇万ドルもあれば足りるでしょう」と、エリアヴァの所長は請けあった。ハーリン…

ベンチャー企業の参入

『米国科学アカデミー会報』は、ベンチャー資本家ケイシー・ハーリンテンにとって、飛行機向きの雑誌ではなかった。だが、出張にでかける際、恋人の隣の座席に座ると、ハーリンテンは一九九六年十一月の『ディスカバー』誌に掲載されたファージに関する記事…